明治30年代に小豆島に三人の文学者が生れた。
壷井繁治と黒島伝治、そいて壷井栄である。三人とも苦しい生活の中から自身の文学を築き上げ、文学史に足跡を残している。
壷井栄は十人きょうだいの五女、慈愛深い祖母に、住みこみの弟子達を加えると二十人近い大家族共同体の中で育ち、「暦」(新潮文芸賞)の豊かな素材となる。
大正14年東京で壷井繁治と結婚、のち繁治の加わる(戦旗)の発行・発送に務めた。
子を持たぬ栄は身辺の子をわが子のように育てながら母を描いた。
その一つ、佐多稲子のすすめで書きあげた「大根の葉」は宮本百合子のすいせんにより発表、初々しい出世作となる。
また「十五夜の月」は時流に媚びぬ庶民のくらしを平明に語りかけた童話として高い評価を受けた。
そして「二十四の瞳」は、戦時下の女教師と生徒とのふれあいを描いて、戦争のもたらす不幸を訴え、平和への強い願いは広く読者の感動を呼んだ。
その後多作に追われて病み昭和42年6月23日東京鷺宮で死す。六十七才。
参照:【戎居仁平治記】より
坂手湾を見下ろす丘に「壷井栄文学碑」があり、碑文には、「桃栗三年柿八年柚(ゆず)の大馬鹿十八年」と刻まれている。
壷井繁治は、明治30年(1975)、小豆郡苗羽村堀越(現小豆島町堀越)に、壷井増十郎・トワの四男として生れる。早稲田大学英文科を中退、
大正11年(1922)個人雑誌「出発」を創刊。
大正14年(1925)岩井栄(壷井栄の旧姓)と結婚。
繁治は激しい弾圧に合いながらも詩を書き続け「壷井繁治全集」など日本の近代詩に大きな影響を与えた。
堀越の生家の上に「壷井繁治詩碑」があり、「石は億萬年を黙って暮らし続けた その間に空は晴れたり曇ったりした」との、生前本人が選んだ詩文が刻まれている。
黒島伝治は、明治31年(1898)、小豆郡苗羽村(現小豆島町苗羽)に生れる。
大正8年(1919)早稲田大学高等学校予科英文学科に入学するが徴兵される。
兵役を終え小説を書き始め、「軍隊日記」「二銭銅貨」などがある。
苗羽芦浦に「黒岩伝治文学碑」があり、「一粒の砂の千分の一の大きさは世界の大きさである」と刻まれている・

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