智恵の文殊と呼ばれる智恩寺を駒札によって詣でてみよう。
文殊堂
『ここ智恩寺は「知恵の文殊」とよばれ、またこのところの名から「切戸の文殊」・「九世戸の文殊」とよばれて古くからの信仰の厚いところであった。
寺伝によれば、その開創は千余年の昔、延喜年間という。
世に三文殊と称するのは、ここ智恩寺に加えて、奈良県桜井市の阿部院・虚都市左京区金戒光明寺(あるいは、これに代えて、山形県高畠待ち大聖寺)の三寺の文殊のことである。
国指定の特別名勝「天橋立」というのは、海中に、3.6キロメートルにわたって連なる砂嘴(さし)の部分だけでなく、それを展望できる成相寺山麓の「傘松」の地、そしてここ智恩寺の境内地をも含めているのである。
寺に伝わる古縁起にも、
そもそも、九世戸あまのはしたてと申すは、本尊は一字文殊、鎮守ははしたての明神と申す。本地はおなじ文殊にておわします。 云々
と記し、橋立も一体の信仰の地と考えられてきたのである。
本尊は善財童子・優闐王(うてんおう)を従えた文殊騎獅像である。
境内には、本堂をはじめ、山門・多宝塔ほか諸堂が並び、寺だけでなく、地方の歴史を語る多数の遺物に接することができる。』
出典:【智恩寺の駒札】より
多宝塔
『上重は円形で亀腹を付け宝形の屋根を載せて相輪を付し、下重は周囲に方形の裳階を付けた形式の塔を多宝塔という。
本寺多宝塔は、上重の柱等に記される墨書名によって、丹後国守護代で府中城主延永修理進春信によって建立され、明応10年(1501)に落成したことが知られる。
下重には来迎柱が立ち、前方に須弥壇をつくって大日如来が安置されている。
来迎壁の背面には、造塔の奉行も務めた丹後一宮大聖院の住僧智海により、片足を上げた府道明王が描かれており、「八十余歳書之・智海」の署名がある。
本塔は市内で唯一の中世建築遺構であり、かつ唯一の国指定重要文化財建造物である。
丹後地方には、残存する古建築が極めて少ないなかで、創建の事情、年代が明らかな本塔は貴重な存在である。』
出典:【智恩寺多宝塔の駒札(室町時代)】より
石造地蔵菩薩立像
『ここには、南に並んで二躯、その北に離れて一躯の、等身の地蔵菩薩像が立っている。
いずれも右手を握って錫杖を執る形を示し、左手には宝珠をささげている。
二躯が並ぶ内の向って右側のものは、最も保存状態が良く作風的にも優れている。
背面の銘文によると、応永34年(1427)に、三重郷(現中郡大宮町)の、大江越中守(法名永松)の発願(ほつがん)により造立された一千体地蔵の内のひとつとなるが、他に同類の作は知られていない。
離れて立つ北の一躯は、斜めに流れる体部衣文(えもん)の的確な彫法などに、優れた技法をみせるが、頭部を失い現在は後補のものと替わっている。
背面銘文から、三上因幡守(因州太守沙弥祐長)の発願により、永享4年(1432)に造立されたことがわかる。
また南のもう一躯についても、両手先ほかに欠損を受けているが、他二躯と制作年代が隔たるものではないであろう。
これらの地蔵像については、雪舟筆の国宝「天橋立図」に、それらしい姿が描かれており、智恩寺の歴史とも関わりが深い。
とくに、願主、造立年代を記す先の二躯については、資料的価値も高く、平成5年に宮津市指定文化財に指定されている。』
出典:【石造地蔵菩薩立像(室町時代)の駒札】より
鉄湯船
『現在手水鉢(ちょうずばち)として使用されているこの鉄盤(てっぱん)は、本来湯船として制作されたものである。
湯船は寺院の大湯屋において寺僧の施浴に用いられたものである。
この鉄湯船には内側に銘文が鋳出されており、そこからこの湯船は、もとは興法寺(弦竹野郡弥栄町)のために鋳造されたことがわかる。
同様の湯船は成相寺(宮津市)にも遺されており、ともに銘文から、正応3年(1290)、河内国の鋳物師(いもじ)、山川貞清により制作されたことが知られる。
いずれにしても、このような古式の湯船が、現在二つも宮津市に遺されていることは、珍重すべきことであり、また中世鋳物資料として、全国的にも極めて貴重な遺品である。』
出典:【鉄湯船(鎌倉時代)の駒札】より
力石
『この石は、当地文殊に伝わる力石と呼ばれるもので、祭や集会の余興にこの石を持ち上げ、青年達が力自慢を競ったものです。
(石の重さ 大139Kg、中100Kg、小70Kg)
今では、当智恩寺に奉納され、この石に触ると不思議に力と知恵が授かると、今に伝わっています。』
出典:【力石の駒札】より
智恵の輪
『この石造りの輪を、「智恵の輪」と言う。
舟行の安全にそなえた輪灯籠で、享保11年(1726)、貝原益軒の著した「扶桑名勝図」の一冊として刊行された「丹後与謝海天橋立之図」中、「天橋山智恩寺」海岸に、すでにこの輪灯籠が見られるから、その由来は甚だ古いと言わねばならない。
この輪灯籠をなぜ「智恵の輪」と言うかは、いろいろと説があって明らかではないけれども、遠い昔から智恵の文殊さまの境内にあって、その「九世の渡」の安全を守ってきた輪灯籠が、そのまま文殊さまの慈悲の光を海上に放つものと見る昔の人々が、これを文殊さまの「智恵の輪灯籠」と呼び馴れるのは、きわめて自然のことである。
したはって、この「智恵の輪灯籠」の輪をくぐり抜けた者には、文殊さまの智恵を授かるご利益があるという話など、これまたきわめて自然な、しかもほほえましい諸人のユーモアではなかろうか。
誠に、「智恵の輪」とは、文殊さまの境内に建つこの輪灯籠にのみ、ふさわしい呼び名である。
「智恵の輪も 文殊汀に 時雨居り」』
出典:【智恵の輪の駒札】より






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