石見重太郎仇討ちの場
01仇討ち碑mid
雲井の松のその先の右側、少し奥まった所にあるのが「石見重太郎仇討ちの場」の石碑。
『岩見重太郎は、講談などで有名な伝説上の剣豪で、江戸時代の初めごろに活躍したと伝えられる。
充良郎は、父の仇の広瀬軍蔵・鳴尾権蔵・大川八佐衛門を追って宮津にやってきたが、仇の三人は藩主京極家にかくまわれていた。
やがて藩主の許可を得て、ここ天橋立の濃松の地で、三人を討ち取り本懐を遂げたという。
また重太郎には、毎夜、天橋立で通行人を襲っていた元伊勢籠神社の狛犬の足首を切り、その夜行を止めたという伝説も残されている。』
                           出典:【剣豪 岩見重太郎】より
岩見重太郎は、仇討ち前の武者修行の途中で、生贄の娘を助けるために狒々(ひひ)を退治したという「狒々退治」の話が有名で、また岩見重太郎は薄田隼人兼相(かねすけ)の若かりし頃で、豊臣家に仕えた薄田は、慶長20年(1615)大坂夏の陣で、義兄弟の後藤又兵衛、塙団衛門と共に戦い、道明寺・誉田合戦にて討ち死にするのである。

天橋立神社
02天橋立神社mid
さらに先に歩くと左側に「天橋立神社」がある。
『天橋立神社の所在する場所は、天橋立の濃松(あつまつ)と呼ぶ地点に当たる。
近くに真水がわくことから磯清水と呼ばれる井戸があり、磯清水神社ともいわれて来た。
当社の祭神は、明治時代の京都府神社明細帳では伊弉諾(いざなぎ)命とされ、江戸時代の地誌類では、かつては本殿の左右に祠があり、本殿の祭神を豊受大神、向かって左は大川大明神、右は八大龍王(海神)とする。
当社は知恩寺境内にあったものを天橋立内のこの地に移したという説がある。
確かに江戸時代前期の天橋立図屏風には、当地に社殿風の建物が描かれるとともに知恩寺境内に鳥居が描かれていて社殿が存在する。
一方、南北朝期の「慕帰絵詞(ぼきえことば)」に描かれた天橋立の図や雪舟筆「天橋立図」には、すでに当地に社殿が描かれており、江戸時代中期の「与謝之大絵図」(享保9年(1724)や「丹後国天橋立之図」(享保11年(1726)には当地に「橋立明神」の文字も記されているため、中世半ば以降は当地に鎮座すると考えられる。
いずれにしても、天橋立は江戸時代には知恩寺の境内地(寺領)であり、天橋立神社も知恩寺に属する神社であった。
現在の社殿は明治40年(1907)の再建になる。
当社の参道は社殿から南西方向に進み、阿蘇海に達する地点に石造の鳥居が立つ。
鳥居の石材は花崗岩で形態は明神型、「吉津村記」によると慶安4年(1651)の造立、願主は知恩寺住持南宗ほかの銘が記されているが、鳥居表面の風化が著しく、現在これを詠むことはできない。』
                  出典:【天橋立神社(天橋立大明神)の駒札】より

磯清水
03磯清水mid
天橋立神社の横には、日本名水百選に選ばれた「磯清水」がある。
『この井戸「磯清水」は、四面海水の中にありながら、少しも塩味を含んでいないところから、古来不思議な名水として宣伝されている。
そのむかし、和泉式部も「橋立の 松の下なる 磯清水 都なりせば 君も汲ままし」と詠ったことが伝えられているし、俳句にも「一口は げに千金の 磯清水」などともあることから、橋立に遊ぶ人びとには永く珍重されてきたことが明らかである。
延宝6年(1678)時の宮津城主永井尚長は、弘文院学士林春斎の撰文を得たので、ここに「磯清水紀」を刻んで建碑した。この刻文には、
「丹後国天橋立之磯辺有井池清水湧出、蓋有海中面別有一脈の源乎、古来以為勝区呼曰磯清水、 云々」とある。
湧き出る清水は今も絶えることなく、橋立を訪れる多くの人々に親しまれ、昭和60年には環境庁認定「名水百選」の一つとして、認定を受けている。』
                            出典:【磯清水の駒札】より