瑞巌寺には「国宝瑞巌寺」の石碑が建つ所を入り、「臨済宗妙心寺派瑞巌寺専門道場」の札が掛かる門を中に入る。
中に入るとすぐ目に入るのが法身窟である。
法身窟は、
『鎌倉時代中期(13世紀半ば)諸国行脚中の北条時頼が、後に臨済宗円福寺の開山となる法身性西(法身性才、俗に真壁平四郎)と出会った場所と伝えられてる。
西安2年(1300)京都嵯峨天龍寺開山の夢窓国師がここを訪れた時、無人の窟内から天台止観を講ずる声が聞こえたという。
窟内には時頼の法名碑・当山中興雲居国師行状碑・三陸海粛供養碑等が収められている。』
出典:【法身窟(ほっしんくつ)の駒札】より
法身窟の横には粘板岩の巨岩(稲井・井内石とも言う)に刻まれた二体の観音像は、右が楊柳、左が鎮海観音と呼ばれ、いずれも塩釜出身の小池曲江(1758~1847)の模写になる。
鎮海は寛政12年(1800)、楊柳は文政6年(1823)の建立。
出典:【鎮海・楊柳観音の駒札】より
瑞巌寺は、松島の名勝とあいまって名高い奥州一の禅寺で、岩窟には地下水がにじみ、老杉が茂る森厳な境内に豪華壮麗な建物が建ち、遠く東北の地にあって伊達家の菩提寺としての威厳をたたえている。
正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、臨済宗妙心寺派の禅宗寺院である。
起源は古く、天長5年(828)慈覚大師円仁が天台宗の一寺を建立し、青竜山延福寺と号したのが始まりだと伝えられる。
13世紀中頃の鎌倉時代に、鎌倉幕府執権・北条時頼が宋から帰った法身性西禅師を開山として、臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と改める。
以来、大覚・知覚など多くの帰化僧は住持となった。
しかし戦国時代を経て次第に衰退荒廃し、16世紀末に、臨済宗妙心寺派に属するようになる。
慶長9年(1604)、仙台藩祖・伊達政宗は紀州熊野・高野から良材を運ばせ、円福寺の復興を開始し、慶長13年(1608)に、寺名を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と改め、翌14年(1609)に現在みる瑞巌寺を落成させた。
以降、伊達家の菩提所となり、最盛時には13の塔頭が中門と大門の間に並び、70余の末寺があったという。
国宝の本堂、庫裏、御成玄関、廊下、及び重要文化財の御成門、中門、太鼓塀など桃山時代の代表的建造物である。
隆盛を誇った瑞巌寺も明治維新の廃仏毀釈の影響で荒廃するが、明治9年(1876)明治天皇の東北巡幸に際し、瑞巌寺が行在所となり復興の契機となった。
本堂は、
慶長14年(1609)完成の建物で、南東に面し、南西端に御成玄関が、南東端に庫裡に続く廊下が接続し、間口二十一間(38m)、奥行十四間(24m)単層入母屋造・本瓦葺で10の部屋がある。
京都・根来の大工が技を競い、桧・杉・欅は熊野から運ばれ、各室は部屋の使用目的に沿った絵画や彫刻で装飾されていて、狩野山楽・永徳・法眼・長谷川等胤らが筆をふるい、特に左甚五郎作と伝わる竹に虎・松に仙人・葡萄にリスの欄間の彫刻は素晴しい。
本堂内は写真撮影が禁止され、また拝観時間も少なくじっくりと観賞することが出来ず、豪華絢爛な襖絵の印象も薄いものとなってしまった。
参道の途中に「鰻塚」なるものがあった。
鰻塚は、松島が大正の初めころには湾内が鰻の一大産地であり、名物であったのだが、乱獲や潮目の変化で漁獲量が激減し、その原因が獲った鰻の供養をしなかったからだとなり、大正12年(1923)8月に鰻に関連する業者の寄付2,585円によって、高さ2.85m、幅1.57mの供養碑が建立された。
また毎年5月13日には瑞巌寺で「鰻供養祭」が行われ、その後に松島湾に鰻の稚魚が放流されている。
鰻塚から奥には洞窟群が並び、それらを右手に見て進むと瑞巌寺に向かう参道へと出る。
行きは参道、帰りは洞窟群を見ながら帰ればよかったのだが、時間にせかれ左に洞窟群があることが分からず参道から戻り、鰻塚から洞窟群の参道を見るにとどまったのである。
崖の壁面に死者の魂を鎮めるために、鎌倉から江戸時代にかけて掘られたもので
『瑞巌寺洞窟群として納骨や供養のための施設で、造営は鎌倉時代にさかのぼり江戸時代まで続いた。
松島は古来「奥州の高野」と呼ばれ、浄土往生を祈念する神聖な霊場であった。』
出典:【瑞巌寺洞窟群の駒札】より
洞窟の中には、石仏や塔婆、五輪塔、戒名などが無数にあり、瑞巌寺霊場としての雰囲気を今に伝えている。





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