材木町
『津山城築城当時、用材置き場があったこの地にあったため、その名が付いたと伝えられる。
江戸時代には材木商や大工などが多く居住していたことが資料からわかっている。
宮川大橋の西詰んは大番所や御札場があり、城下町東の関門としての役割を果たしていた。
松平藩時代には往来沿いの街並みの南に武家地があり、上級武士たちの下屋敷や馬場があった。また、その南の河原は追廻河原または覗(のぞき)河原とも呼ばれ、万人講(富くじ)の海上でもあった。』
東大番所跡
『得御時代、城下町の出入口には軍事面と治安維持の必要から番所が置かれていました。
津山藩では延宝6年(1678)、城下を貫通する出雲街道の東西の二ケ所の入口にそれぞれ大番所を設置して番兵を常駐させていました。
宮川大橋の西詰のこの地には東大番所があり、また宮脇町の翁橋東詰には西大番所がおかれていまして。
これらの番所を境に城下を内町と外町に分けて往来の取締りを行っていました。
現在、宮川大橋を渡った城東地区の出雲街道沿い1、2キロメートルの区間を街並保存地区に指定しています。
江戸後期から明治を中心とした伝統的な町家が数多く残っています。』
作州城東東屋敷
『この屋敷の大溝から南は、出雲街道に面した町家の跡地であり、大溝から北は上之町の武家屋敷の跡地です。
明治8年(1875)に日新小学校ができ、その後、小学校の統合により分校に、同36年(1902)11月に廃校になりましたが、昭和5年(1930)からは「岡山県津山工芸専修学校」、後には青年学校や保育園が置かれ、長く城東の教育の場として利用されてきました。
そして平成5年(1993)より、作州東屋敷として整備し活用されることになりました。』
中之町(なかのちょう)
『中之町の名は、新町(東新町と西新町)と林田町(橋本町、林田町、勝間田町)の中間にあることに由来するという。
宮川以東に形成されていった林田町から東には、街道沿いに足軽屋敷が続いていた。
そして、そのさらに東にも、新しい町人の街並みが形成されていった。
正保4年(1647)、森藩はこの足軽屋敷を廃止したらしく、中之町分の屋敷地を払い下げ、新しく町人町が形成された。』
東新町
『出雲街道沿いの城東地区は、元は町人町と足軽町の混在地で、寛永3年(1626)に城下町に編入される前は林田新町と呼ばれこの時、東新町と西新町に分かれたという。
城下町の東の端となる東新町には、職人町ではないにも関わらず鍛冶屋が多く軒を連ねた。
職人町である鍛冶屋町では刀剣を作成していたのに対し、東新町では鎌や鍬など生活に密着した刃物を生産し、村方の農民の利便を図っていた。』
津山洋学資料館と箕作阮甫旧宅
津山洋学資料館は洋学を専門とする博物館で、津山出身の洋学者・箕作阮甫の旧宅が国の史跡となったことで、津山に関係する洋学者を顕彰しようと、昭和53年(1978)に開館する。
開館当時から収蔵品が大幅に増えたことから、平成22年(2011)に現在の城東町並み保存地区内に新築移転された。







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