ご当地そんぐを岡山から続けていこう。
『男はつらいよ』(昭和44年(1969)映画第1作で使用)
『男はつらいよ』(昭和44年(1969)映画第1作で使用)
作詞:星野 哲郎、作曲:山本 直純、歌:渥美 清
松江の宍道から、雨の木次線に乗って広島の備後落合まで行く。
ここから岡山を目指すのだが、伯備線で岡山まで出るか、芸備線で新見まで出て姫新線で津山に向かおうかと考えているうちに、新見行が来たのでこれに飛び乗った。
岡山のご当地そんぐが、何故「男はつらいよ」なのかということを説明する為にも津山へと向かったのである。
津山は古くから美作のお中心地で、出雲街道や吉井川の水運などの交通の要衝として栄え、慶長8年(1603)森忠政の入国築城や松平家の城下町として発展をする。
その中核をなした津山城は、
『津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長9年(1604に起工し、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものでした。
また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には七十余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
明治6年(1873)廃城令によって城郭は公売され、翌7年から8年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。
その後、明治33年(1900)城郭は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和38年に国の史跡に指定されました。』
出典:【津山城跡】より
備中櫓
『備中櫓は本丸御殿の南西端に位置し、その名は鳥取城主池田備中守長幸に由来すると伝えられる。森藩時代の基本的な資料である「森家先代実録」には「備中櫓 池田備中守長幸入来之節出来」とある。
森忠政は長女於松を池田備中守長幸に嫁がせており、長幸は忠政の娘婿にあたる。その長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓であったと考えられている。
備中櫓跡の発掘調査で池田家の揚羽蝶紋の瓦が出土したことも、この建物が池田家と深い関係にあったことを物語っている。
備中櫓の外観は漆喰仕上げで通常の櫓と同様だが、本丸御殿指図には備中櫓がその東に接続する長局・到来櫓とともに描かれており、これらの建物が御殿の一部として認識されていたことを示している。
さらに指図によると内部には御座之間や茶室を備え、建具には「唐紙」を用いるなど、内部は完全に御殿建築であり、なおかつ繊細で女性的な仕上げであったことがわかる。
そのためにこの櫓は、本丸御殿の最奥部という位置からしても、城主にごく近い間柄の女性もしくは城主自身の生活空間の一部として用いられたと考えられる。
このような特異な構造を持つ櫓は類例が少なく、津山城の建物の中でも特徴的なものであるため、復元整備の大正となったものである。』
出典:【備中櫓】より
津山城の歴代城主は、
『森家
森家は清和源氏で、初代津山藩主森忠政は、美濃金山城主森可成の六男に生れました。
慶長8年(1603)徳川家への数々の武功が認められて、信濃川中島13万7,500石の大名から美作一国18万6,500石の大名に抜擢されました。
この忠政は、本能寺の変で主君の織田信長とともに壮絶な最期を遂げた森蘭丸の末弟にあたります。
森氏は四代95年にわたって美作国を治めましたが、四代藩主長成に嗣子がなく津山森藩は改易となりました。
その後、森家は二代藩主長継の子長直が備中西江原藩主として森宗家を再興し、さらに宝永3年(1706)播磨赤穂に移りました。
松平家
森家に変わり10万石の大名として新たな津山藩主となった松平宣富は、徳川家康の第二子結城(松平)秀康の曽孫で越前家と呼ばれ、徳川一門中に重きをなしていました。
そして明治4年(1871)に廃藩となるまで、九代174年にわたって続きました。』
出典:【歴代城主】より
津山の礎をなした森忠政(1570―1634)は、
『幼名を千丸。元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生れる。
京都本能寺の変で、織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟。
天正12年(1584)兄長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山7万石を与えられる。
のち徳川家康に仕え、慶長5年(1600)信濃(長野県)川中島13万7000石を領す。
洞8年美作国一円18万6500石を与えられ津山に入封。翌9年より津山城の築城に着手、また城下の町づくりを始め、現在の津山の基をなした。
寛永11年(1634)三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。享年65才。
なお、この像は、津山市小田中、森家の菩提寺源寺にある木像を基としたものである。』
出典:【森忠政】より




コメント