松江城から北西に北之丸があった所にある「護国神社」、小泉八雲が通勤途中に立ち寄ったという「城山稲荷神社」を過ぎ、搦手虎口跡から稲荷橋、新橋と渡り、塩見縄手へとむかう。塩見縄手は小泉八雲の世界となる。

01記念館(1)mid
ここには、小泉八雲の記念館と、旧居が並んで建っている。
『小泉八雲は、パトリック・ラフカディオ・ハーンといい、1850年、ギリシャのレフカダ島で、アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生れる。
2歳でアイルランドに移り、大叔母に引き取られ、アイルランドやフランス、イギリスで教育を受けるは7歳の時に両親が離婚し、16歳で左眼を失明し、大叔母の破産も重なり19歳で単身アメリカに渡る。
赤貧の生活を経て、シンシナティ・ニューオリンズでジャーナリストとして活躍し、フランス文学の翻訳、創作活動も開始し文才を認められるようになる。

02記念館(2)mid
明治23年(1890)、39歳のときにハーバード社の特派員として日本へ渡り、まもなく、同社との契約を解消し、帝国大学のチェンバレン教授や文部省の紹介で、島根尋常中学校および師範学校の英語教師となる。
籠手田安定知事・西田千太郎教頭・千家尊紀出雲大社宮司などの知己を得、松江・出雲の風土・精神性をこよなく愛すようになる。
武家の娘、小泉セツと出会い、塩見縄手の侍屋敷(根岸邸)で生活を共にした。
1年3ケ月ほどしか松江には住んでいないのだが、この地が八雲に与えたものは、日本の心だったのであろう。

03八雲の像mid
松江を去り、熊本・神戸・東京と移り住むのだが、明治29年(1896)にセツと正式に結婚し、日本人小泉八雲となる。
熊本第五高等中学校、神戸クロニクル社、帝国大学文化大学、早稲田大学に勤務し、同時に日本を五感で観察し、日本文化に関する多くの作品を著した。
小泉八雲といえば、Kwaidan(怪談)である。亡くなる年の明治37年に、妻の節子から聞いた、恐い話を、独自に解釈をして情緒豊かな文学作品として書き残したのである。
明治37年(1904)狭心症のため54歳で世を去っている。
日本で最初に過ごした松江の地が、パトリック・ラフカディオ・ハーン にとっては、日本そのものだったのであろう。』
                     参照:【小泉八雲記念館パンフレット】より

04塩見縄手mid
小泉八雲記念館は、塩見縄手の通り沿い、小泉八雲旧居の西隣にあり、昭和8年(1933)に、八雲ゆかりの人や愛弟子お募金活動による寄付金により建設、開館された。
開館当時は洋風建築であったが、現在の記念館は、伝統美観保存指定地区のため、木造平屋の和風造りとして、昭和59年(1984)に改築されたものである。