山陰本線は明治32年(1899)に、京都鉄道が京都から園部までの路線を開業させたことに始まる。
特に嵐山から亀岡の区間は、保津川が流れる峡谷に線路を敷くという難工事で、当時トンネル掘削技術が未熟で、出来るだけトンネルを少なくするという考えで、保津川の断崖絶壁に線路を通してゆき、トンネルは最長の朝日トンネル(499m)8箇所、橋梁は50箇所を越えた。
京都鉄道は明治40年(1906)国に買収され、その後、園部から北に山陰地方に向け延伸し、昭和8年(1933)幡生(はたぶり)までの全線が開通している。
嵐山と亀岡の区間は単線ですれ違いの為、昭和4年(1929)に信号所が設けられ、昭和11年(1936)に、それが駅として昇格し「保津峡」の駅となっている。
「馬堀」の駅は昭和10年(1935)の開業である。
この区間は車窓から保津川の渓谷美や四季折々の風景を楽しむことが出来、列車旅の醍醐味を堪能することが出来る区間であった、
一方では悲しい出来事も起っている。
昭和25年(1950)に金閣寺が寺の徒弟僧に放火され、国宝の舎利殿と足利義満像が焼失する事件が起きた。
放火した僧は捕まり懲役7年の判決が下り収監されるが、病状が悪化し釈放された後26才で亡くなっている。
この事件と山陰本線との係わりは、徒弟僧の母親が舞鶴から山陰本線で京都に向い、息子との面会を願うも息子に拒否され失意のまま、山陰本線の花園駅から汽車に乗った。
17時20分頃に汽車が保津峡と馬掘の間に差しかかった時に、汽車のデッキから保津川に身を投げ自殺をするのである。
蒸気機関車で牽引された客車は、車両どうしの連結部は扉も無く、風が吹き晒す所で、簡単に身を投げることが出来たのである。
こんな悲しい一面もあった旧山陰本線であった。


コメント