熊野古道には6つの路があり、そのどこを歩くかによって最初に詣でる社が違ってくる。
「大辺路」紀伊田辺から串本を通り、熊野那智大社へ・・・
「中辺路」紀伊田辺から東に分岐して、熊野本宮大社へ・・・
「小辺路」高野山から紀伊山地を歩き、熊野本宮大社へ・・・
「大峯奥駈道」吉野から大峯山を縦走し、熊野本宮大社へ・・・
「伊勢路」伊勢神宮から、熊野本宮大社・熊野速玉大社へ・・・
に至るのだが、和歌山には何回か訪ねているのだが、殆どが車であり、熊野古道で言えば「紀伊路」から「大辺路」を車で走っていて、内陸部には殆ど足を踏み入れていないので、熊野那智大社には参拝したのだが、あとの二つは参拝していないのである。
熊野那智大社は、はるか昔の西暦紀元前662年、東征のために神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと:神武天皇)の一行が那智の浜に上陸すると、光輝く山が見えそれを目指し進んで行くと、那智の滝に行き当たり、その滝を大己貴神(おおなむちのかみ)が現れたる御神体として崇め祀ることにした。
一行がここに導かれたのは天照大神が遣わした八咫烏(やたがらす)で、役目を終えた八咫烏は、その姿を石に変え「烏石」となり、熊野那智大社で休んでいるという。
熊野那智大社は、熊野本宮大社、熊野速玉大社に較べ那智の滝が御神体であったことから、社殿建立は遅く、仁徳天皇5年(317)に、現在那智の滝を祀る飛瀧神社のある辺りに社殿が建立されたのが熊野那智大社の始まりとされている。
時が進み、神仏習合(神(神社)と仏(寺院)とを同一視する思想)の思想が広まり、熊野那智大社も如意輪堂と一体となり神様と仏様が敷地内に同居することになるのだが、明治時代に時の指導者の思惑により神仏分離令が発せられることになる。
これにより熊野本宮大社や熊野速玉大社にあった仏(仏像や仏塔)は全て廃されるのだが、、熊野那智大社の如意輪堂は西国三十三所の一番札所だったことから遺され、青岸渡寺(せいがんとじ)として今に続いているのである。


コメント