『串本育ち』(昭和43年(2002)発売)
作詞:吉川 静夫、作曲:吉田 正、歌:古都 清乃
発売当時はA面だったのだが、B面の和歌山ブルースがヒットし、昭和55年の新盤ではB面となっている。
「潮岬は男の岬 岩に飛沫の虹がたつ/誰が立てたか橋杭岩は 渡る大島舟の橋/花の巡航舟は大島めぐり 忘れられない海金剛」とうたい、このなかで「串本節」が歌われている。
『串本節』(和歌山県民謡)
「ここは串本 向いは大島 仲をとりもつ巡航船 アラ ヨイショ ヨイショ ヨイショ」
「潮の岬に 燈台あれど 恋の闇路は照らしゃせぬ アラ ヨイショ ヨイショ ヨイショ」
「舟のともろに 鶯のせて あすも大漁と鳴かせたい アラ ヨイショ ヨイショ ヨイショ」
と歌われる。

大阪の渡辺津(八軒家)から、上町台地の熊野街道を南に紀州へと向い、紀伊田辺から大辺路(おおへち)の海岸沿いを、串本をへて熊野那智大社へと歩く。
ここは串本と歌われる串本だが、少し寄り道をしていこう。

橋杭岩
(はしぐいいわ)
01橋杭岩mid
橋杭の海岸から大島に向い40ほどの岩が、北から南に向い850mにわたって一列に並んで立っている。
その姿が橋脚(橋杭)のように見えることから橋杭岩と呼ばれている。
橋杭岩は、1500万年前に地下のマグマが、海の仲の地層に入り込み、冷えて固まったものが隆起し、それが波の浸食で柔らかい泥岩が削られ、硬い流紋岩が直線状に残り今の形になった。
伝承には、
弘法大師と天邪鬼(あまのじゃく)が串本まで来た時に、弘法大師が串本から向いの大島まで橋を一晩でかけようと考え、橋を架け始めた。
弘法大師は山から大きな岩を担ぎだし、次から次へと海中に橋杭を立てていった。
天邪鬼はこれを見て、これでは朝までに立派な橋が出来てしまうので邪魔する手だてはないものかと考え、夜明けのニワトリの鳴きまねをする。
弘法大師はその鳴き声で夜が明けたと勘違いし、作りかけのままでその場を去ったという。
その為に、その橋の杭が残ったのが、橋杭岩だと言われている。
と伝わっている。

紀伊大島
02紀伊大島mid
串本節で知られる大島は、本州最南端の串本の向い(東南)1.8Kmの沖合にあり、東西8㎞、南北2.5㎞、周囲26㎞の離島で、串本と大島の間を巡航船は通っていた。
島内には、明治3年(1870)に日本で最初に点灯された「樫野崎灯台」、寛政3年(1791)アメリカ商船の寄港を記念した「日米修交記念館」、明治23年(1890)に起きた「トルコ軍艦エルトゥールル号遭難慰霊碑」が建ち、海岸線の海金剛の「魔女の髪梳き岩」は絶景である。
大島の港は古くから船の避難や風待ちの港として栄え、大阪と江戸を往来する船の停泊港でもあった。
「ここは串本 向いは大島 仲をとりもつ巡航船」と歌われるように、大島と串本の間には大正時代の始め頃に巡航船が運航され、昭和47年(1972)には、フェリも運航されるようになる。
その昔、弘法大師が橋を架けようとした時からの悲願だった橋が、平成11年(1999)に架けられ向いの串本とは陸続きとなり、仲をとりもった巡航船とフェリは廃止される。
「くしもと大橋」と呼ばれ、ループ橋(386m)とアーチ橋(290m)との2つの橋から出来ている。

潮岬
03潮岬灯台mid
潮岬は断崖の高さ50m、太平洋に突き出た本州最南端の台風銀座の岬で、台風情報では台風位置を表す指標とされている。
元々は島だったのだが、周辺の河川から運ばれた砂が堆積し、串本と陸続きとなったものである。
南西端には「潮岬灯台」が立つ。
灯火中心が水面上49m、地上20m、塔の高さは23mの灯台で、第一等反射器18個、単せん白光(15秒に1せん光)光度 60万カンデラ、光達距離19海里(35Km)の本灯が、明治6年(1873)に点灯されている。
この時は八角形の木造で、我が国初の洋式灯台であった。
明治11年(1878)に石造灯台に、大正4年(1915)に第二等フレネル不動レンズ、昭和3年(1928)に電化され、昭和32年(1957)に90cmの回転式に、令和5年(2023)にLRL-I2型に変更され、変わることなく海の安全を見守っている。