熊野街道の最初の王子である「窪津王子」から、熊野街道を北大江・中大江公園をとおり、南に1.5Kmほどにある南大江公園の中、朝日神社があった辺りに、2番目の王子「坂口王子」があったようである。
途中の中大江公園には小説家、宇野浩二の石碑がある。
宇野は九州福岡に生まれるが、4才の時に大阪のこの地(東区糸屋町、現中央区糸屋町)に移り、南の宗右衛門町にも住んでいるが、多感な青春時代を大阪のこの地で過ごしている。
そんなことから、糸屋町の中大江公園に宇野浩二の最初の小説「清二郎 夢見る子」からとった一節を刻んだ石碑が建っている。
石碑には、
『私は私の過去の小さい生活を思ひ浮かべる時、その何處までが眞實で、その何處からが私の夢であるかを判する事が出来ない。
さういう私は、凡ての事實を夢と見ることが出来、凡ての夢を事實と見ることが出来る様に思はれる。』
出典:【宇野浩二「清二郎 夢見る子」】より
南大江公園の中に、朝日神明社跡の石碑が建つ。
説明文によれば、
『朝日神明社は、天慶(てんぎょう)年間(938~947)に平貞盛が創建したという。
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)と倭比売命(やまとひめのみこと)を祭神とし、朝日の社名は祭神の天照皇大神にちなむとも、社殿が東面していたためとも考えられている。
熊野王子のひとつの坂口王子の伝承地である。
当社は逆櫓社(さかろのやしろ)とも称されたが、これは源平合戦の際に、源義経と梶原景時が櫓のつけ方について論争したことに由来する。
江戸時代の難波(なにわ)22社巡りのうちの1社である。
明治40年(1907)3月まで、この神崎町に鎮座していたが、現在は此花区春日出中に移座している。
旧地には狸坂大明神が鎮座している。』
出典:【朝日神明社跡(坂口王子伝承地)の説明板】より
坂口王子から街道は大阪湾に面した海岸線や崖を避け上町台地へと向い、「榎大明神」のひとつ前の通りを東に入り、谷町筋を越え一筋目を南に四天王寺へと歩く。
3番目の「郡戸(こうと)王子」と4番目の「上野王子」はこの間にあったという。
榎大明神の由来は、
『長年に亘り、地元の人達に「エノキさん」「己さん」と親しみ呼ばれているこの大樹は、正しくは「槐(えんじゅ)」という中国原産の樹である。
楠木正成公がお手植という説もあり、樹齢はおよそ六百五十年と言われている。
豊臣の時代には当地も大阪城で、この辺りは紀州熊野参りとお伊勢参りの街道筋だった。
だから大きくそびえるこの樹は、何よりの目印になったし、また地元の人達は土地神として「白蛇大明神」の祠を建てて、代々この樹をお守りしてきた。
昭和20年(1945)第二次世界大戦の大空襲の折りには、襲ってきた猛火がこの樹の辺りでぴたりと止まり、東側一帯が危うく類焼を免れた。
これも霊験のひとつとして語り伝えられており、毎年春の大祭が挙行されている。
昭和63年(1988)、当樹が枯死寸前の状態になったとき、大阪市と「箔美会」からの依頼を受けた山野忠彦樹医の適切な延命治療により、再び元気をとりもどした。
そして現在、樹勢は極めて盛んとなり、地元で生誕され直木賞で有名な直木三十五氏の文学碑とともに、都心のオアシスとなっている。』
出典:【榎大明神の由来】より
榎大明神の側にある直木三十五の文学碑には、
『「きっと なせる 市蔵」
「なせる」
大久保市蔵はそういってうなずくと
吉之助の手を握った
軽輩のすべては同じ心で
磯浜を桜島を眺めている
直木三十五「南国太平記」より』
出典:【直木三十五文学碑】より
と刻まれている。
四天王寺から谷町筋を下り、阪堺電車を横に阿倍野筋を歩き、松虫通付近から旧街道に入ると大阪で唯一現存する「阿倍王子神社」となる。
熊野街道は住吉大社、泉州を経て、熊野三山へと続いてゆく。




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