『熊野古道』(平成18年(2006)発売)
作詞:木下 龍太郎、作曲:弦 哲也、歌:水森 かおり
水森かおりの14曲目のご当地ソングである。
熊野古道は、熊野三山(田辺市の熊野本宮大社、新宮市の熊野速玉大社、那智勝浦町の熊野那智大社)へ詣でる道路をいい、三重、奈良、和歌山、大阪から続く6つの路の総称である。
平成16年(2004)に世界文化遺産に登録されている。
「伊勢路」三重の伊勢神宮から熊野三山を結ぶ路(170Km)
「大峯奥駈道」奈良の吉野から大峯山を縦走し熊野三山を結ぶ修験道の路(170Km)
「小辺路」和歌山の高野山から熊野三山を最短距離で結び紀伊山地を南北に縦走(1000m
の3つの峠を越える)する路(70Km)
「中辺路」紀伊田辺から東に分岐し紀伊山地に入り熊野三山と結ぶ路(84Km)
「大辺路」紀伊田辺から枯木灘や熊野灘を眺めながら海岸線を歩き熊野三山と結ぶ路(120Km)
「紀伊路」大阪の渡辺津から熊野三山を結び飛鳥や奈良の都より天皇が行幸した路
熊野詣は平家が台頭してきた頃に、京の貴族の間で一大ブームとなる。
後にも先にも、この頃が紀州和歌山の、それも南端の京からみれば、はるか彼方の熊野に脚光があたった時であり、そこに詣でる道が「紀伊路」の熊野街道であった。
熊野街道は、大阪天満の渡辺津(八軒家)から歩き始めて、紀州那智のお山までを歩く街道で、当時は京から淀川を下り天満の八軒家に着き、ここからが熊野街道の始まりとなり、九十九の王子を経て熊野のお山へと、上町台地の西、御祓筋を通り浪速を抜けて紀州へと続いてゆくのである。
京都伏見から三十石船に乗り夜に出て、大坂の渡辺津には明け方に着いたという。
ここから天満・住吉・高野はたまた遠くは、紀州熊野詣でへの出発点となった船着場である。
渡辺津は八軒家とも呼ばれ、江戸時代に八軒の船宿などがあったことから八軒家と呼ばれるようになり、京の伏見から浪速へと三十石船が運航されていた。
三十石船というと、有名なのが森の石松「三十石船のくだり」で、石松が清水次郎長一家の子分の強さの順を訊ねるのだが、すし食いねえと寿司と酒を飲ましても、一は大政、二は小政、三に桶屋の鬼吉で四、五、六と続いても石松の名が出てこない。
やっと思い出してもらえて、すし食いねえと云ったまでは良かったが、最後は喧嘩は強いが少しおばかさんという落ちでこのくだりは幕を降ろしている。
その三十石船のくだりは、この淀川を下る船の中での話である。
天満橋の大川から一つ入った土佐堀通の、永田昆布の店先に「八軒家船着場の跡」の石碑が建っている。
古代難波の地は、上町台地の北端である八軒家以北は内海であり、大阪湾へとつながっていた。
時を経て、淀川と大和川が土砂を運び、河内平野と云われる広大な平野が出来、八軒家あたりを難波の堀江と呼び、難波津という港が出来た。
そして、熊野詣が盛んになる平安時代には、この辺りは渡辺津と呼ばれ京から淀川を下り、この地に上陸をして上町台地を南へと道をとり、熊野まで旅をしたのである。
八軒家の船着場のある土佐堀通の西側はすぐに高台となっていて、この辺りが上町台地の北端であり、その昔は土佐堀通は川であり八軒家で船を降りると、登りの道を船宿や遊郭などによって遊んだのであろう。
石碑横の説明板には、
『この地は江戸時代には八軒家と称し、淀川を上り下りの三十石船の発着場として、さらに古くは渡辺といい、紀州熊野詣での旅人の上陸地として栄えた。また大江山の鬼を退治したといわれる渡辺綱は、この地を支配した摂津源氏一族の出身であり「地獄門」で知られる遠藤盛遠が袈裟御前を見初めたのも、ここに架けられた渡辺橋の渡りぞめの時と伝える。楠正行がこの橋からなだれ落ちる敵兵を救いあげ、衣料を与えて国へ帰してやったという美談は、明治初年わが国が万国赤十字に加盟のとき伝えられて感銘を与えた。』
出典:【八軒家の説明板】より




コメント
コメント一覧 (1)
今でもその頃の風情が残っているようにみえます。
ところで、京都に「今熊野」というバス停がありますが、熊野神社と何か関係があるのでしょうか。
拍手です。
youhobito
が
しました