『女町エレジー』(昭和48年(1973)発売)
作詞・作曲:石坂 まさを、歌:吉野 さくら
「女に生れて よかったわ 本当はいいこと ないけれど せめて心で 思わなきゃ 生きてはゆけない この私 生駒は 哀しい女町」
と歌われるよううに、この歌は生駒新地で働く女性のことを歌ったもので、歌詞からも想像できるように、女にとっては生駒は哀しい町だったのである。
近鉄奈良線の生駒駅から宝山寺に至る参道が、生駒新地と呼ばれた界隈であった。
生駒山中腹に宝山寺が建つのだが、生駒山は神仙人が住む山として崇められていたが、宝山寺の寺伝よると、斉明天皇元年(655)に役行者が梵文般若経を書写して納め開いたとされる修験道場で、弘法大師(空海)も修行したという。
江戸時代の延宝6年(1678)湛海律師が生駒山に入り、延宝8年(1680)正月に村人や郡山藩家老らの協力で、五間四面の仮本堂が建立され、後に大聖歓喜天が祀られる。
貞享5年(1688)に、本堂や伽藍が寛政し名を「寶山寺」と改める。
「生駒に優れた験者あり」と噂され、京の皇室や公家、徳川将軍家などの祈願もあり、聖天信仰の霊場として名を馳せた。
寳山寺は大聖歓喜天を祀る商売の神として信仰が厚く、毎月1日と16日の聖天縁日には多くの参拝者で賑う。
大正3年(1914)に、大阪電気軌道(現在の近鉄)が大阪上本町と奈良の間(現在の近鉄奈良線)に電車を走らせた時に、生駒駅が開設されたことで、宝山寺は大幅に参詣者が増加し賑わうようになる。
余談だが、生駒トンネルを掘って生駒駅を造ったことで、莫大な借金を抱えた大軌は宝山寺に賽銭を貸してもらうように頼み込み、苦境を助けられたという。
この当時は生駒駅から参道を宝山寺まで歩いて登っていた。
噺は変わるが、精進落とし(しょうじんおとし)という儀式があるが、不孝ごとがあり精進料理(仏教で「殺生をしない」「煩悩を刺激しない」という戒律に基づき肉や魚を食べない食事)を摂っていたものを、四十九日の忌明け(いみあけ:忌中が終わり普通の生活に戻ること)に通常の食事に戻ることをいう。
かつては伊勢参りなど、その道中で精進潔斎をしていた参拝者が、参拝後に精進落としをするために遊郭などに繰り出したといい、宝山寺でも参拝後に精進落としをするための遊郭(生駒新地)が生駒駅からの参道にあったのである。
この女町に働く女性を歌ったのが「女町エレジー」なのである。
さらに宝山寺への参拝者を増加させたのが、大正7年(1918)生駒の鳥居前駅から宝山寺駅の間(0.9Km)で日本初のケーブルカーの運転が開始されたことである。
鳥居前駅の名は、今でこそ駅前に鳥居はないが、昭和50年代に宝山寺の惣門近くに移転するまでは、駅そばに宝山寺の一の鳥居が建っていた。駅名はその名残である。
昭和元年(1926)に複線となり、戦時中に金属類回収令により片側が撤去されるが、戦後の昭和28年(1953)に再建されている。
また、生駒山上遊園地の開園に合わせ、昭和4年(1929)に、宝山寺と生駒山上間(2.0Km)に別路線として開業している。
鳥居前駅からの直通運転はなく、宝山寺駅2分割され、乗り換える必要がある、
山上遊園地に行ったことはあるのだが、このケーブルかー7に乗ったことはなく、信貴生駒スカイラインを走って車で行ったのだと思う。
「山と山に 囲まれた ここは大阪 奥座敷 別れてしまえば 他人でも 想い出します 雨の夜は 生駒は 哀しい女町」



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