「天理」を出ると、「櫟本(いちいもと)」「帯解」「京終(きょうばて)」と続き、終点「奈良」となる。
「櫟本」で高校生が乗り込んできて、一変に車内は賑やかになったのだが、ここには奈良県立添上高等学校の最寄駅である。

01帯解mid
「帯解」は安産祈願の寺として知られる、帯解寺がすぐであり、犬の日には、安産を願う人で賑っている。
山号は子安山という、華厳宗の寺院で、本尊は地蔵菩薩である。
弘法大師(空海)の師である、勤操(ごんそう)が開いた巌渕千坊の一つで、松が美しかったことから霊松庵と呼ばれていた。
1200年前の第55代文徳天皇の妃・染殿皇后(藤原明子)が、長らく子に恵まれず霊松庵に子授け祈願をしたところ、まもなく懐妊され惟仁親王(清和天皇)が生まれたことから、天安2年(858)、文徳天皇は伽藍を建立し、「帯が解けた寺」として「帯解寺」と名付けたという。
以来、安産・子授け祈願の寺として信仰を集めるようになったという。
また江戸時代には、2代将軍徳川秀忠の正室・お江(ごう)や3代将軍家光の側室・お樂の方が安産祈願をして、竹千代(徳川家光)や竹千代(徳川家綱)を安産している。
近年の皇室も、昭和34年(1959)に皇太子妃・美智子殿下、平成3年(1991)と平成6年(1994)に秋篠宮妃・紀子殿下、平成13年(2001)に皇太子妃・雅子殿下の安産祈願法要を行っている。

02京終mid
「京終」、「きょうばて」と読み、まさに、京(みやこ:平城京)の終わる所(外れ)だったのである。
京終には、明治31年(1898)開通当初の木造平屋建て駅舎が残っており、平成29年(2017)にJRから奈良市に無償譲渡され、平成31年(2019)奈良市によってが復元工事が完了し、奈良町の南玄関口となった。

03大安寺mid
京終の駅からは少し遠いが、第34代舒明天皇の開基なる大安寺がある。
聖徳太子が建てた「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」が官寺となり、百済大寺、大官大寺と変遷を重ね、平城京遷都に伴い、霊亀2年(716)に現在地に移り「大安寺」となっている。
南都七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺)のひとつに数えられ、奈良時代には東大寺や興福寺と並び隆盛を極めた。
しかし都が平安京へと移ると寺盛は徐々に衰退し、寛仁元年(1017)の大火で堂宇の殆どが焼失してしまい、衰退の一途を辿るのである。
江戸時代には観音堂のみが残っているという有り様であった。
明治15年(1882)に大安寺が再興され、大正11年(1922)に本堂が再建されている。
現存する堂宇は近代の再建になるもので、奈良時代の遺品は木彫仏九体が残るのみである。
大安寺は癌封じにご利益がある寺として信仰され、特に1月23日に行われる「光仁会(癌封じ笹酒まつり)」は、光仁天皇が大安寺に詣でた際に、竹に酒を注ぎ飲んだことで長寿を過ごしたという伝えから、癌封じと健康長寿を祈願して笹酒が振舞われる。

04奈良mid
「京終」を過ぎると終点の「奈良」となり、万葉まほろば線の旅が終わるのである。