『大阪タイガースの歌』(昭和11年(1936)リリース)
作詞:佐藤 惣之助、作曲:古関 裕而
『阪神タイガースの歌』(昭和55年(1980)リリース)
作詞:佐藤 惣之助、作曲:古関 裕而、歌:立川 清澄・二期会合唱団

01甲子園(1)mid
正式には「阪神タイガースの歌」というのだが、「六甲おろし」のほうで良く知られている、阪神タイガースの球団歌である。
昭和11年(1936)に「大阪タイガースの歌」で発表され、昭和36年(1961)に「阪神タイガース」と球団名が変わったことにより「阪神タイガースの歌」となる。
現行の日本のプロ野球では最古で、戦前から歌いつがれている球団歌である。
「六甲おろし」は、昭和46年(1971)から始まった朝日放送ラジオの「おはようパーソナリティ中村鋭一です」のなかで、阪神が勝った翌朝に中村が歌うようになり、一躍知られるようになり、1番の「六甲颪(おろし)に 颯爽(さっそう)と 蒼天翔(か)ける 日輪の・・・」という歌詞から中村鋭一が「六甲おろし」と呼んだことから、この名で知られるようになる。
ちなみに作詞の佐藤惣之助は神奈川、古関裕而は福島出身で関西には縁がなく、シーズン中に甲子園に吹く風は、ライトからレフト方向に吹く「浜風」あり、六甲颪がふくことはないのだが・・・(六甲颪とは、六甲山から吹き降ろしてくる山風をいう。)
また昭和55年(1980)に立川清登が歌った「六甲おろし」が、球団公認版とされている。

02甲子園(2)mid
甲子園球場は、兵庫県西宮市にあり大阪にあるのではない。阪神本線の甲子園駅が最寄り駅である。
阪神電鉄は、大正13年(1924)に、武庫川の改修で埋め立てられた支流の枝川と申川(さるがわ)の地に運動場を建設し、その年が十干十二支の組み合わせの最初の甲子(きのえね)年だったことから、甲子園大運動場と名付けられたのが甲子園球場の始まりである。
昭和5年(1929)には外野に天然芝が張られ、アルプススタンドもこの頃に出来たらしく、名称も「甲子園球場」に変更されている。
周辺には遊園地、動物園、水族館やテニスコート、プール、鳴尾競馬場やゴルフ場などが出来、一大レジャーゾーンとなる。
昭和10年(1935)にプロ野球チームの「大阪タイガース」が創設され、ホームグラウンドとなる。
太平洋戦争では軍事私設として利用され、終戦とともに米軍に接収されるが、昭和22年(1947)に甲子園球場の接収が解除され、春と夏の高校野球とプロ野球が再開されている。
またその年、ホームランを増やすために、外野にラッキーゾーンが設けられた。(平成3年(1991)に撤去される。)
爾来、改修工事を加えながら現在は、高校球児の聖地として、また阪神ターガースファンの聖地として今に至っている。

03甲子園(3)mid
最初に甲子園球場に行ったのはと考えてみるに、小学校3年の夏休みに大阪の親類の家に遊びに行った時に、甲子園球場で高校野球を見たという記憶がある。
高知商業の試合で、その時はさよなら負けだったように思うのだが・・・
それからは、大阪に出てきたこともあって、甲子園球場には随分と足を運んだものである。
高校野球では、高知の明徳義塾高校と松井秀喜のいた星稜高校の試合で、松井を5打席連続で敬遠した明徳がパッシングを受け、これは次の試合は応援に行かなければと甲子園球場に行ったのだが、試合は負けてしまった。
阪神タイガースの試合には、随分と行った。
たいがいは3塁側の内野席かアルプススタンドでの観戦で、何回かライトの外野席で見たのだが、内野席の雰囲気とは全く違っていた。
応援の雰囲気がまるで違う。熱狂度がまるで違うのである。ぜひ一度はライトスタンドで観戦してみては・・・
近所の巨人ファンが切符を取ってくれて、レフトスタンドで見たことがある。
当然周りは巨人ファンであり、肩身の狭い思いで見ていたのだが、中に堂々と阪神の応援をする強者がいて目立っていた。
よく考えてみるに、バックネット裏と1塁側では観戦したことがないということが判明した。
コロナ禍からその後も暫く甲子園から足が遠のいており、9月7日の両リーグ最速の優勝もテレビでの観戦となってしまったが、来年は甲子園で胴上げを見てみたいものである。