『浪速恋しぐれ』(昭和58年(1983)発売)
作詞:たか たかし、作曲:岡 千秋、歌:岡千秋・都はるみ
戦前の落語家初代・桂春団治と陰で支えた妻・お浜の夫婦愛を歌いあげる
そこに「雨の横丁 法善寺」と「いつか中座の 華になる」との歌詞がでてくる、
道頓堀には、川の南岸に日本橋から西に、弁天座・朝日座・角座・中座・浪花座という五つの芝居小屋があったことから、道頓堀五座と呼ばれた。
これら五座は、歌舞伎や仁輪加・人形浄瑠璃などの演目が掲げられ、道頓堀の中心的存在として興行しており、昭和と年号が変わるまでに、松竹がその経営にたずさわることとなる。
ところが時が移るにつれ、娯楽の多様化とともに、これらの芝居小屋も閉館のやむなきになり、最後まで残った中座と浪花座も平成11年(1999)に取壊されることになり、中座の解体作業中にガス爆発事故を起こし、近くにある法善寺横丁が被害を受けた。
その中座は現在、中座くいだおれビルとして復活をし、中座の名は今に残されている。
これら五座の跡を訪ねるに、
弁天座跡(竹田の芝居跡)
竹田の芝居は、寛文2年(1662)、からくり人形を使った芝居を考案した竹田近江が、太左衛門橋南詰に創建をする。
「摂津名所図会」に、竹田の芝居を見物するオランダ人の様子がが描かれていて、「竹田のからくりを見ないと大坂に来た甲斐がない」という記述がある程に、大坂名物であった。
宝暦年間(18世紀中頃)に現在の跡地に移り、歌舞伎などを上演するようになる。
明治9年(1876)に火事で焼け、再建後に「弁天座」に改称している。
昭和20年(1945)大阪大空襲で焼失し、戦後に再建され「道頓堀文楽座」、「朝日座」と名を変える。
そして、昭和59年(1984)国立文楽劇場の開設に伴い、その幕を閉じることになる。
その跡地は、日本橋の架かる堺筋から西に、竹横筋の少し手前の今はTimesがある駐車場の辺りにあった。
朝日座跡
承応元年(1652)に開業し、角丸の芝居と呼ばれた小屋で、明治10年(1877)に阪恵座(豊竹座)が廃座したことで、五座の1つに数えられるようになる。
明治16年(1883)に改築をし「朝日座」と海相し、壮士芝居や新派劇を上演していたが、明治41年(1908)に、松竹が買収をし、明治44年(1991)道頓堀で最初に映画上映の劇場となるが、昭和20年(1945)の大阪大空襲で焼失し、廃座となる。
戦後の昭和30年(1955)に東映が跡地を買い取り、関西初の東映系映画館「道頓堀東映」としてオープンをする。
しかし建物の老朽化や新しいシネコンが開業するなどして、平成19年(2007)に閉館することになる。
その跡地は、相合橋の架かる相合橋商店街の西、今はボーリング場がある辺りにあった。
角座跡
慶安5年(1652)大坂太左衛門芝居として開座する。
太左衛門橋の角にあったことから角之芝居、角座と呼ばれ、中之芝居と共に大芝居として、高い格式を誇った。
宝暦8年(1758)に、歌舞伎作者の並木正三により、舞台転換に不可欠の「回り舞台」が世界で初めて設置され、文政9年(1826)には、ドイツ人の医師であるシーボルトがここで歌舞伎を鑑賞している。
大正9年(1958)に、経営が松竹に移り演劇などがおこなわれたが、ここも昭和20年(1945)の大阪大空襲で焼失している。
戦後、映画館として復興し、その後、昭和33年(1958)に客席1000席規模の演芸場として開場し、上方演芸の殿堂として賑わった。
しかし1980年代の漫才ブームに乗り遅れ、出演者をベテランから若手に変えたことも裏目となり、昭和59年(1984)角座は閉鎖されるのである。
その後、映画館ライブ場などとなるが、平成20年(2008)に閉鎖となる。
平成25年(2013)7月に、角座の跡地に、演芸場がある本棟と飲食店が入る別棟、それにイベントスペースの広場を設けた「道頓堀角座」をオープンしている。
ここは、定期借地契約が満了した平成30年(2018)に閉館となった。
その跡地は、太左衛門橋の南詰め東、今は「ホテルフォルツァ大阪なんば道頓堀」となっている。
中座跡
寛文元年(1661)に名代の塩谷九郎右衛門が開いた芝居小屋で、江戸時代には「中之芝居」と呼ばれていた。
たびたび火災に見舞われながら、明治18年(1885)に新築開場し、翌年に「中座」と改称する。
昭和3年(1928)に火災で焼失、昭和5年(1930)に台風により倒壊するが、都度再建されている。
昭和20年(1945)大阪大空襲で焼失し、戦後昭和23年(1948)に再建されている。
上方歌舞伎や松竹新喜劇の本拠地として上方芸能を支え、喜劇の創始者・曾我廼家五郎、上方歌舞伎を代表する名優・初代中村鴈治郎、最後の天才喜劇役者・藤山寛美などの拠点となった。
寛美が亡くなる前に「中座に行きたい」と言い、妻と中座に出掛けたというエピソードなど、多くの芝居関係者に愛された。
しかし平成11年(1999)に、建物の老朽化と営業不振により閉座されるのである。
平成14年(2002)解体工事中にガス爆発を起し全焼し、法善寺横丁16棟にも累を及ぼすのである。
その跡地は、法善寺横丁の北側、今は平成21年(2009)に「中座くいだおれビル」がオープンし、寄席囃子も聞こえない中座となってしまった。
浪速座跡(竹本座跡)
貞享2年(1685)、浄瑠璃の竹本義太夫が開いた人形浄瑠璃の芝居小屋で、宝永2年(1705)に座元を竹田出雲に任せ、近松門左衛門が座付作者、竹本義太夫が専属太夫となり、「仮名手本忠臣蔵」(寛延元年・1748)、「菅原伝授手習鑑」(延享3年・1746)、「義経千本桜」(延享4年・1747)などの人形浄瑠璃は歌舞伎をしのぐほどの人気となる。
近松の「曾根崎心中」(元禄16年・1703)、「心中天の網島」(享保5年・1720)など、多くの戯作が竹本座で初演されている。
江戸時代中期の人形浄瑠璃の最盛期には、竹本座を西風(にしふう)、同じ人形浄瑠璃の豊竹座を東風(ひがしふう)の語りと呼び人気を二分した。
しかし竹田出雲が亡くなり人形浄瑠璃も衰退し、明和4年(1767)に歴史の幕を降ろすのである。
その後、歌舞伎の小屋となり、「筑後の芝居」とか、道頓堀の一番西にあったことから「大西の芝居」とも呼ばれ、明治時代に浪速座と名を変えて、映画や演芸なども興業されていたが、平成14年(2002)に閉館するのである。
その跡地は、戎橋南詰め東、今は商業ビルが建ち、五座で唯一「竹本座跡」の石碑が建っている。
「竹本座は、初代竹本義太夫が、貞享元年(1684)この地に創設したもので、偉大な劇作家近松門左衛門と提携協力して、人形浄瑠璃全盛期の基をひらいた。」
出典:【竹本座石碑の碑文】より








コメント
コメント一覧 (2)
初めて知りました。それぞれに栄枯盛衰があったんですね。
拍手です。
youhobito
が
しました
唯一、今残っている大阪松竹座も閉館になるそうです。
寂しいかぎりです。
youhobito
が
しました