日本橋の架かる堺筋を越えて、さらに西に歩くと、玉屋町筋の道頓堀川に架かる橋が「相合橋」である。

01相合橋mid
相合橋の呼び名は様々で、自分などはずっと「あいあいばし」だと思っていたのだが、どうやら「あいあうばし」と呼ぶようである。
ほかにも「あいおうばし」「あいおいばし」などとも呼ぶらしい。
この橋が架けられたのは江戸時代の1860年代だといい、中橋とか新中橋と呼ばれていた。
宝永4年(1707)に初演された近松門左衛門の「心中重井筒(しんじゅうかさねいづづ)」にも登場している。
相合橋の名になったのは、宝永の頃(18世紀のはじめ)といわれ、北に宗右衛門町の色町で、南に道頓堀の芝居小屋のある町を結ぶ橋であった。
北の色町から、この橋を渡り芝居小屋に通い、また色町に帰るという粋な遊びをしたというが、明治になり、この橋を渡ると男女の縁が切れると言われ、縁切橋の名が付けられ、島之内の遊女はこの橋を渡ることはなかったといい、婚礼の行列もこの橋を渡らなかったという。

02盛り場をmid
相合橋のたもとにある石碑には、
『相合橋は江戸時代の貞亨年間(1684~1688)にはじめて架けられたと伝えられる。
当初は、新中橋または中橋と呼ばれ、近松門左衛門の名作「心中重井筒」の中にも、「月ははや 渡り初して中橋や 六軒町の小夜がうし・・・」と語られている。
相合橋と呼ばれるようになったのは宝永の頃(18世紀のはじめ)と考えられ、芝居櫓が建ちならぶ南側の芝居まちと北側の華やいだお茶屋まちを結ぶ橋として多くの人に親しまれてきた。
昭和37年12月にはそれまでの木橋から現在の鋼橋に架けかえられたが、このたびの拡幅整備により、いつに変わらぬ道頓堀の風情が楽しめる憩いの広場に生まれ変わった。』
                            出典:【相合橋の碑分】より
とあり、昭和37年に木橋から味気のない橋に変わってしまい「盛り場を 昔に戻す 橋ひとつ」という雰囲気が失われてしまったのは、返す返すも残念である。

03近松mid
相合橋は、近松の「心中重井筒」(しんじゅうかさねいづつ)にも登場し、この橋の北にあった茶屋・重井筒が物語の舞台で、心中した徳兵衛の実家で相手のお房はここの遊女であった。
徳兵衛は自分を庇う女房・お辰の気持ちに打たれお房との別れを決めるが、相合橋のたもとに来たときにこの橋を渡ってしまい、二人は樽屋町から道頓堀を抜け、高津の大仏勧進場を最期の場所と定めて道行とのクライマックスを向かえるのである。
この「心中重井筒」の「道行血潮の朧染」の一節が刻まれた石碑が、国立文楽座の前に建っている。

04織田mid
織田作之助の「夫婦善哉」にも相合橋が登場し、かつて橋の東詰めに、まむし(鰻丼)の出雲屋があり、「新世界に二軒、千日前に一軒、道頓堀に中座の向いと、相合橋東詰にそれぞれ一軒ずつある都合五軒の出雲屋の中で、まむしのうまいのは相合橋東詰の奴や」と綴られている。