東横堀川が船場・島之内の東端を流れ、阪神高速の下、島之内の南で西に向きを変えると、そこから道頓堀川となる。
道頓堀川の上流から最初に架かる橋が、近松門左衛門の浄瑠璃「生玉心中」の舞台となった「下大和橋」である。

01大和橋(1)mid
東横堀川から日本橋筋あたりまでを大和町といい、これがこの橋の名の由来となっっている。
下大和橋の辺りには金比羅詣の船着場があり、参詣客で大いに賑わったという。
大和町の由来を記した町名継承碑には、
『当町は明治初頭、大坂三郷南組の道頓堀大和町であったが、明治5年3月大和町となった。
同12年2月南区、同22年4月市制施行にともない大阪市南区大和町となった。
昭和57年2月住居表示の実施にともない、大和町は島之内二丁目の一部となった。
町名は、その由来については定かではないが、道頓堀開削後の町割り開発に際し、関係者の名前にちなんだものと考えられる。』
                       出典:【旧町名継承碑「大和町」】より

02大和橋(2)mid
下大和橋は、近松の「生玉心中」の大和橋出見世の場面として登場し(生玉心中 中巻 大和橋出見世の場)、
『こころこころの 商いも みな世渡りの大和橋 下いく水の泡よりも 色にそ銀は消えやすく』と描かれている。
下大和橋の碑文によれば、
『近松門左衛門の戯曲、生玉心中の舞台ともなった本橋付近の島之内、道頓堀界隈はまさに庶民の生活の舞台であった。
現在もこの橋の南側には国立文楽劇場や二ツ井戸があり賑わいのある道頓堀とは一線を画し、上方文化の香りの残る地区となっている。
江戸時代、このあたりには大和橋と中橋の二橋が架かっていたが、宝暦年間に大和橋が廃され、道頓堀川にそそぐ東横堀川に上大和橋が架けられたことにより中橋が下大和橋となった。
木橋であった下大和橋が永久橋となったのは昭和3年(1928)のことで、昭和62年(1987)の架け換えの際に、橋面空間の演出に重点をおいた整備が行われた。』
                            出典:【下大和橋の碑】より

03生玉心中mid
生玉心中は、正徳5年(1715)5月に、大坂竹本座の小屋に係り、伏見坂町の遊女おさがと茶碗屋の嘉平次が、生玉神社の境内にて心中を遂げるまでを描いた、近松の心中ものの一つである。
生玉心中の大和橋出見世の場では、
「嘉平次が「さが」を連れ大和橋の出見世に戻るのだが、出見世の主人が嘉平次の父に連絡し、父は許嫁の「きは」を伴い店に駆けつけ、死をかけて説教をする。
嘉平次はそれに従い父を安心させ、父は銀を置いて帰ってゆく。
そこに悪友の長作が現れ、その銀を持ち去ろうと争いになり、銀を奪い取られてしまう。
それで死を覚悟した嘉平次は「さが」を連れ生玉神社へと向い、そこで脇足で「さが」を刺し、自分は「さが」の帯で首を括り心中するのであった。」