道頓堀川の女狐に騙されそこねた二ツ井戸通をさらに東に歩を進めると、道頓堀の東の堀止めに、この通り名の」由来となった「二ツ井戸」と呼ばれた井戸があった所となる。
今ここには井戸は残ってはいないのだが・・・

01町名mid
この辺りは「二ツ井戸町」と呼ばれていたのだが、ローソンの前の空地の前に建つ「旧町名継承碑」には、
『当町は明治初頭、大坂三郷南組の高津五右衛門町の一部であったが、明治5年3月二ツ井戸町となった。
同12年2月南区に、同22年4月市制の施行にともない大阪市南区二ツ井戸町となった。
昭和57年2月住居表示の実施にともない二ツ井戸町の一部は瓦屋町三丁目の一部となり、さらに昭和58年2月住居表示の実施にともない残部が高津二丁目・道頓堀一丁目の各一部となった。
町名は、二つの井戸が並んで清水を湧出し、付近の民家の用水となって有名であったことに由来する。』
                     出典:【旧町名継承碑「二ツ井戸町」】より

02つのせmid
明治22年に道路の拡張で撤去されるのを惜しんだのが、宝暦2年(1752)に津の国屋清兵衛が創業した、「津の清(つのせ)」で、5代目店主が、井戸の側石の払下げを受け、井戸の西側にあった店の店頭に設置をするのである。
津の清は、粟おこしや岩おこしを販売する店で、粟おこしは米を細かくし、水飴に生姜やゴマを混ぜて板状に固めたもので、米の小さな粒が粟のように見えたことから、「粟おこし」と名付けられたという。
よく似たものに「岩おこし」があるのだが、使用する材料は殆ど同じなのだが、あわおこしよりも米を細かく砕いているために、隙間が殆どなく食感としては、かなり固いものとなっている。
大阪のお土産といえば、粟おこしや岩おこしと言われるほどに有名で、「津の清」の店は、喜田川守貞の「守貞漫稿」や、近松門左衛門の「生玉心中」、山崎豊子の「のれん」などにも登場するのであるのだが、今は食生活の変化により、時代から取り残された感があり、大阪土産はと聞いても「粟おこし」や「岩おこし」と答える人は少ないのである。
津の清は、平成28年(2016)に大阪市住吉区に移転をしている。

03二ツ井戸mid
二ツ井戸は、昭和20年の大坂大空襲で壊れてしまい、昭和27年に清津橋(道頓堀川の下大和橋下流から分流した高津入堀川に架かって居た橋、川も橋も今はない)のたもとに移転した「津の清」の店頭に復元されたが、平成12年に無くなってしまうのだが、三度も場所を変えた後に、平成24年(2012)に国立文楽劇場の前に85%の大きさで復元をされている。
説明文によれば、
『二ツ井戸は当初、道頓堀の東、堀止めに江戸時代1634年頃からありました。
二つ並んで掘られた井戸は珍しく、寛政8年(1794年)の『摂津名所図絵』には名所のひとつに選ばれ、「清泉にして此辺民家の用水とす」と記載されています。
当時この辺は高津五右衛門町と呼ばれ銭座があり、寛永通宝など幾多の貨幣が二ツ井戸の水で鋳造されました。
井戸が明治時代の都市計画の道路拡張で撤去されるのを惜しんだ、西側(現在の道頓堀1丁目東3-23)にあった粟おこし屋「津の清(つのせ)」の当主が払い下げを受け店頭に移設しました。
その後井戸に因んで、町名も二ツ井戸町へと改名されました。
その井戸は大阪を愛した作家織田作之助の代表作「夫婦善哉」にもたびたび登場します。
移設時掘掘された井戸の水は大正12年、少し南方の日本橋三丁目に松坂屋大阪支店が建築されて以来水が出なくなってしまいました。
先の第二次世界大戦時、昭和20年の空襲の戦火で御影石の井戸枠がぼろぼろになり修復不可能になりました。
その後、昭和27年に西方の清津橋のたもと(江戸時代に店があった場所)へ移転した「津の清」の店頭に復元されました。三度も場所を変えた二ツ井戸は、その後も町の人に愛されながらも平成12年に姿を消しました。
この度、銘板と標柱が見つかったのを期に、由緒ある井戸を後世に伝えようと、この地に再移築し復元いたしました。』
                        出典:【旧跡二ツ井戸の説明板】より

04銘板mid
現在、津の清は、平成28年(2016)に大阪市住吉区に移転をし、「二ツ井戸津の清」として店舗を構えている。
「二ツ井戸の記」の銘板は二ツ井戸のあった「津の清」店頭の壁面に、石柱は井戸の横に、平成12年(2000)まで道頓堀1丁目東6番21号に在った実物で、石柱の文字は昭和を代表する書家・炭山南木の揮毫で、井戸は85%の大きさで模造復元している。
銘板文中の「仁政の鐘」は中央区釣鐘町に現存し使われている。
『弊社本店前にあります二ツ井戸は寛永11年由緒ある釣鐘(”仁政の金”大阪府庁に現存)の鋳造にあたり、大阪一の水質を誇る二ツ井戸を選びこの地に鋳造所を設け鋳造用冷却水として井戸水を使用したと伝えられております。
その頃から石を四つ組みにした双接の井戸として珍らしがられ、浪速名所の一つとされておりました。
明治22年道路工事のため、この井戸を埋没することになりましたが由緒ある井戸の消滅を惜しんだ弊社五代目店主が、この井戸の側石の払下げを受け店頭に移し保存致しましたが、第二次世界大戦の戦災で破壊されましたので、戦後復元致し今日に至っております。』
                         出典:【二ツ井戸の記の銘板】より