坐摩神社からさらに南に難波神社(なんばじんじゃ)があり、裏からも入れるが御堂筋に面した方が表門である。

01鳥居mid 02本殿mid
難波神社の創建は古く、第18代の反正(はんぜい)天皇が、大阪府松原市に柴籬宮(しばがきのみや)を開いたときに、父の仁徳天皇を祭神として創建したのが始まりとされる。
その後、天慶6年(943)に、現在の大阪上本町の地に移り、さらに慶長2年(1597)に現在の地に移っている。
しかし昭和20年(1945)の大阪大空襲で、すべて焼けてしまい、暫らく再建されずにいたのだが、昭和49年(1974)に、現在の姿に再建され今に至っている。

03石碑mid
難波神社の御堂筋側の鳥居の横に「稲荷社文楽坐跡」の石碑が建つ。
碑文には、
『初代植村文楽軒の人形芝居は、文化8年(1811)ここ稲荷社に芝居を移し、その後中断したが、明治4年(1871)まで続き文楽軒の芝居とも呼ばれ文楽の名の起こりとなった。』
と刻まれ、難波神社の末社である稲荷神社に人形浄瑠璃の小屋が開かれたことが判る。
                        出典:【稲荷社文楽坐跡の碑文】より
植村文楽軒は江戸後期の人物で、人形浄瑠璃の始祖で文楽という名は、この人物に由来する。
大阪堀江にあった小屋を難波神社の境内に移したのは、2世の植村文楽軒である。その後、植村文楽軒は6世まで続くのだが、6世の時に経営不振で、文楽坐を松竹に譲渡するのである。

04文楽座碑mid
日本での人形使いの歴史は古く、平安の頃よりあったといい、傀儡子(かいらいし・くぐつし)と呼ばれ、全国を旅して芸を披露したという。
江戸時代に入ると、浄瑠璃と結びついて人形浄瑠璃が生れる。
竹本座や豊竹坐が出来、太夫の竹本義太夫や作者の近松門左衛門や紀海音などにより、一躍人気を得て歌舞伎を凌ぐようになるのだが、竹本座や豊竹坐がなくなると、その人気に翳りが見え始め、人形浄瑠璃は衰退するのだが、寛政年間に植村文楽軒が大阪の高津橋のたもとに小屋を開き、2世植村文楽軒が、稲荷社の境内に小屋をかけて、人形浄瑠璃を発展させるのである。
明治5年(1872)に、松島に移りこの時に「文楽坐」と名乗っている。
今では、文楽といえば人形浄瑠璃のことを指すのだが、もともと文楽は人形浄瑠璃を演じる小屋の名だったのだが、今では人形浄瑠璃と言うよりも、文楽の名で知られるようになったのである。
駒札には、
『植村文楽軒が当社境内に人形浄瑠璃の小屋を開いたのは、文化8年(1811)のことでその後一時移転、安政3年(1856)再び当地に復帰した頃から「文楽軒の芝居」と呼ばれるようになった。
明治5年(1872)三世文楽軒の時に新開地の九条に移ったが、17年(1884)に三味線の二代目豊沢団平を擁する「彦六座」が当社北門に開場して人気を集めたため、文楽軒も近くの御霊神社境内に小屋を移して対抗した。
彦六座は、明治31年(1898)団平が舞台で倒れたため解散、小屋は「稲荷座」としていろいろな興行に利用されたが、同45年(1912)取りこわされた。』とある。
                        出典:【難波神社と文楽の駒札】より