南御堂の西隣、大阪メトロの本町駅15番出口を出て西へ、一つ目の角を左に3分ほどで坐摩神社となる。

01三ツ鳥居mid
「坐摩神社」を正しく読める人がどれ程いるのだろうか。大阪の地元の人はともかく、この名を見た人は「ざまじんじゃ」と読むだろうことは想像に難くない。
地元でもこの神社を呼ぶ時は「ざまじんじゃ」と読んでいるのだから、さもあらなんとは思うのだが、正式には「いかすりじんじゃ」と読むそうである。
東側の三ツ鳥居の立つ方が表門で、住居・旅立ち・安産の神として信仰されている。
三ツ鳥居は、中央の明神鳥居の両脇に小さな鳥居を組み合わせた鳥居のことを言う。

02坐摩神社mid
坐摩神社の祭神は、
「生井神」(いくゐのかみ:生命力のある井水の神)
「福井神」(さくゐのかみ:幸福と繁栄の井水の神)
「綱長井神」(つながゐのかみ:深く清らかな井水の神)
「波比祇神」(はひきのかみ:屋敷の神)
「阿須波神」(はすはのかみ:足の神)
の五神を祀り、この五神を称して、坐摩大神(いかすりのおおかみ)と称されることから、坐摩神社(いかすり じんじゃ)の名が付いたという。
その起こりは、神功皇后が新羅討伐からの帰り、渡辺の地と呼ばれた今の天満橋の西に着き、ここに一宇を建てたことに始まるという。
時は過ぎ、天正10年(1582)に豊臣秀吉が大坂城を築くために今の地に移され、旧地の渡辺の名を称し、日本の渡辺姓の発祥の地となったのである。

03陶磁神社(1)mid
坐摩神社には、器と火除けの「陶器神社」がある。
もともと陶器神社は、靱南通にあったもので、瀬戸物の陶器を扱う店がその守護神として祀られていたものである。
大阪の陶磁器商いの起こりは、
『大阪における陶磁器商のおこりは、肥前鍋島家の上屋敷(現在の大阪市北区)に肥前物の伊万里焼が回漕され、それを商人が扱ったことに始まる。
その後尾張産の陶器、つまり瀬戸物を扱い始めたことにより陶磁器商は急成長を遂げ、西横堀問屋街が形成された。
その後も瀬戸物の大商いは続き、延宝8年(1680年)から西横堀が「瀬戸物町」(現在の江戸堀から新町)と呼ばれるようになった。
幕末から明治・大正にかけては200以上のお店が軒を並べ、近畿、四国、中国、北陸地方にもその販売網は確立された。』
                        出典:【「せともの町」の歴史】より

04陶器神社(2)mid
陶器神社は坐摩神社の中、西向きに鎮座し、昭和46年(1971)に、今のこの地に移ったという。
かつてこの周辺には陶器の問屋が200軒もあり、商品である陶器が割れないように藁で包んでいたことから、藁は燃えやすいもので、火災から守るために「火除け守り地蔵」が祀られていた。
これが陶器神社の始まりで、幾多の変遷の後に、今のこの地に鎮座したという。
本殿には陶器の灯籠が立っており、境内には陶器製のものが数多く祭られ、まさに陶器神社の名に相応しいものである。

05上方落語(1)mid
陶器神社から本殿の横を奥に入ってゆくと、石畳の道にこんな石碑が建っていた。
「上方落語寄席発祥の地」とあり、碑文には、
『中輿の祖 初代 桂文治
初代桂文治は、寛政年間(1789~1800)坐摩神社境内に大阪でははじめて寄席を建て、抜群の話芸で名人と称され上方落語繁栄の基礎を築いた。
それまで大道芸に近い芸能だった落語を、室内の高座で演ずる現在につながる興行形式にあらためたのである。
ために、文治は上方落語の中興と仰がれている。
文治の名跡は三代目以降が江戸に移ったが、七代目文治の名が一旦大阪に戻り、初代文治を祖とする桂派の流れは大阪と江戸の両地で大きな勢力となって、東西落語界の興隆を支えて今日に至っている。』
と書かれてあった。ここが神柄落語の寄席が始めて出来た所だといい、それを作ったのが、桂文治という落語家だったという。

06上方落語(2)mid
さらに、その碑文には、
『天満天神繁昌亭への継承
江戸時代後期、ここ坐摩神社において初代桂文治が開いた咄の席が上方落語の寄席興行の始まりです。以降、幕末から明治・大正にかけて多くの落語の席が誕生し、上方落語は飛躍的な発展をとげました。
昭和に入り、戦災等によって落語は定席を失いましたが、平成18年9月「天満天神繁昌亭」が開場、約60年ぶりに落語専門の寄席が復活しました。
ここに感謝と継承の思いを込め、初代桂文治の業績を顕彰し原点の証として「上方落語寄席発祥の地」の碑を建立します。』
                     出典:【上方落語寄席発祥の地の碑文】より
とあり、今の天満天神繁昌亭がこれを受け継いだと、桂三枝、今は桂文枝が寄せた分が刻まれている。