北御堂から御堂筋を南に歩くと本町である。
『雨の御堂筋』(昭和46年(1971)発売)
作詞:林 春生、作曲:ザ・ベンチャーズ、歌:欧陽菲菲
「あなたをたずねて南へ歩く・・・
本町あたりにあなたはいると 風の知らせを背中で聞いて こんな…女がひとり 探していたことを 誰かつたえて」と歌う。
本町は、大坂城下の中心地として栄え、現在も大阪市を代表するオフィス街となっている。
大阪メトロの御堂筋線・堺筋線・中央線・四つ橋線が交差する交通の要衝であり、御堂筋線の「本町」は安土町と南本町に跨り、堺筋線の「堺筋本町」は南本町と船場中央に跨っているのだが、中央線の「本町」と四つ橋線の「本町」は地理的には本町に位置していないのである。
本町を過ぎて船場を越えると、北久宝寺町に「南御堂」の建物が現れる。
南御堂は、京都の東本願寺の難波別院で、御堂筋の名の由来となった北御堂と南御堂の二つの御堂が、本町の北と南に対をなして建っている。
本願寺は顕如が示滅(じめつ)すると、長男の教如が12世教主となるのだが、それまで顕如に仕えていた穏健派を排除し、自身と共にあった強硬派を側近として重用したことで内部対立が起こり、母の如春尼が豊臣秀吉を訪ね、末弟の准如を後継とする顕如の譲状を出した。
それを受け秀吉は教如を隠遁させ、准如が13世法主となるのである。
隠遁した教如は文禄元年(1592)に、大坂渡辺の地(現、道修町1丁目辺り)に堂宇を建立し「大谷本願寺」を開創し、文禄5年(1596)には、「大谷本願寺 文禄丙申五暦」の銘が入った梵鐘を鋳造したりしている。
慶長3年(1598)に、大谷本願寺は現在の場所に移っている。
豊臣秀吉と如春尼が亡くなり、関ケ原の戦いで徳川家康が勝利した後の慶長7年(1602)家康より京の烏丸七条に寺地が寄進され、教如は東本願寺(真宗大谷派)を創建するのである。
(一節によれば、家康が本願寺(浄土真宗本願寺派)と対立させることで、本願寺の力を削ぐために寄進したのだという)
これにより、大谷本願寺は「真宗大谷派難波別院」と称されることになる。
その後、北御堂と共に発展し、東を御堂筋、南を本町通、西を渡辺筋、北を備後町通に囲まれ、昭和初期には6,600坪の広さがあったという。
昭和20年(1945)3月の大阪大空襲で建物は灰燼に帰してしまうのだが、昭和36年(1961)に本堂が再建されている。



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