淀屋橋を越えて南へ。今橋~高麗橋~伏見町~道修町~平野町~瓦町と通りを順に南へと下ると、備後町の角に「北御堂」の建物が目に入る。 
北御堂は、京都にある西本願寺の津村別院にあたる。

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天文元年(1532)に、細川晴元との戦いで山科本願寺が焼失すると、翌年に8世法主・蓮如の隠居所であった大坂御坊に移り、「石山本願寺」と呼ばれるようになる。
本願寺はここを拠点として発展するのだが、全国の一向一揆に手を焼いた織田信長が、元亀元年(1570)に石山本願寺に攻めかかるのである。
この戦いは10年にも及び、天正10年(1582)顕如上人が石山本願寺を出て、大坂を退去したことで終わりをつげる。
天正19年(1591)に、豊臣秀吉により本願寺は、京都の現在の西本願寺の地に移ることになる。
その為に大坂の門徒は、天満橋の南側に会所を設けるのだが、これが本願寺津村別院の始まりとされる。

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この集会所は慶長2年(1597)に、津村郷と呼ばれていた現在の場所に移り、津村御坊と呼ばれるようになる。
その後、寺内地は拡大し、明暦元年(1655)には朝鮮使節の宿舎として使用されるが、享保9年(1724)の大火により伽藍が焼失するが、享保17年(1734)に再建され明治を向かえる。
明治になり津村御坊に大阪鎮台が置かれ、明治5年(1872)には明治天皇の行幸が行われている。
明治21年(1888)には、相愛女学校が創立され、昭和2年(1927)御堂筋が拡張され、昭和5年(1930)には地下鉄御堂筋線の工事が始まっている。
太平洋戦争の大阪大空襲で堂塔伽藍の悉(ことごと)くが焼失し、現在の建物は昭和39年(1964)の再建になるものである。