御堂筋の淀屋橋から内北浜通を東に5分ほど歩くと、緒方洪庵が開いた「適塾」がある。
適塾は、幕末の天保9年(1838)に、大坂の瓦町に蘭学塾を開いたのが始まりで、弘化2年(1845)に、ここ過書町(現在の北浜3丁目)の商家を買い取って、「適々斎塾」とし、門下生には、橋本左内・大村益次郎・福沢諭吉・大鳥圭介・高松凌雲・佐野常民・手塚良仙など、明治維新や明治の世に尽力した人物を、数多く排出している。
この塾に学ぶものは、これ以上勉強をしようがないという程に勉強をし、塾に1冊しかない蘭和辞書(ヅーフ編オランダ日本語辞典)のある「ヅーフ部屋」は、塾生が先を競って詰めかけ、夜通し灯りが消えることはなかったという。
緒方洪庵旧宅及び塾の説明文には、
『この建物は、幕末の医師・蘭学者であった緒方洪庵が弘化2年(1845)に買い受けて、天保9年(1838)に大坂瓦町に開いた私塾、適塾(適々斎塾)を移転した場所である。
洪庵は、文久2年(1862)に幕府の奥医師として江戸へ迎えられるまでの約17年間にわたり、ここに居住した。
洪庵は、ここで諸国から集った門人たちに蘭学を教え、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人物を育てた。
敷地は間口約12メートル、奥行約40メートルあり、主たる建物は、主に教室に使われた表屋(前方部)と、洪庵と家族の居室にあてられた主屋(後方部)からなり、南庭に土蔵と納屋がある。
表屋は寛政4年(1792)の北浜大火後まもなくの建物と考えられ、もとは町筋に面する商家の形であったが、洪庵入居の際に若干の改造が行われたとみられる。
表屋は二階建ての一階を教室、二階を塾生部屋とし、主屋は一部二階建てで西側に通り庭を持ち、台所・書斎のほか四室がある。台所の二階にはヅーフ部屋と女中部屋がある。
洪庵が出府してのち、再三の改造があり、大正4年(1915)には前面道路の拡幅によって約1.2メートルの軒切りが行われた。
昭和51年(1976)から55年にかけて行われた解体修復で、軒切り部分を除いて、概ね洪庵居住当時の姿に復原した。
平成25年(2013)から同26年には、文化財的価値に配慮した耐震改修工事を実施した。
この住宅は、蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか、近世における大坂北浜の町家建築の姿を示す貴重な遺例である。
この建物は昭和17年(1942)国に寄付されることとなり、洪庵の子息や適塾関係者らによって明治初期に設立された大阪仮病院や大阪医学校を源流とする、大阪帝国大学(当時)へ移管された。
現在はこれを大阪大学が所有し、一般公開している。建物内部では、適塾および洪庵の事蹟を伝える資料展示を行っている。』
出典:【緒方洪庵旧宅及び塾の説明文】より
適塾を開いた緒方洪庵は、江戸時代も終わりに近い文化7年(1810)に、備中国(現在の岡山県中部)に生まれ、医師であり蘭学者であり、幕末から明治にかけて多くの人材を育てた人物である。
緒方洪庵は、文化7年(1810)に備中国足守藩士の三男として生まれるが、もともと身体が弱く、8才の時に天然痘を患っているが、これが後に天然痘の治療に関わるもととなる。
江戸や長崎に医学を学び、天保9年(1838)に大坂の瓦町で医院を開業し、そこに「滴々斎塾(適塾)」を開くのである。
この年に八重と結婚し、6男7女をもうける。
弘化2年(1845)に、適塾の門下生が増え手狭になったことから、過書川(現在、適塾のある北浜3丁目)の商家を購入し、ここに移ることとなる。
ここで、幕末から明治にかけて、日本を動かす多くの人材を育てあげるのであるが、その名声を聞いた徳川幕府が懇願し、洪庵は渋々江戸に向かうのであるが、江戸の水が合わなかったのか、江戸の役宅で54才の生涯を閉じるのである。



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