東洋陶磁美術館から西に、京阪中之島線の「なにわ橋」の1番出口を出てすぐにあるのが「大阪市中央公会堂」である。
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大阪市中央公会堂は、明治44年(1911)に、株の売買で儲けた岩本栄之助が100万円を寄付して建てられたものである。(明治のころの100万円は、現在の10億円くらいである)
岩本栄之助は明治10年(1877)に、大阪に生まれ父の後を継ぎ、株の仲買人となり株式投資のセオリーどおりに私財を投じ、北浜の株の急場を救うのである。
この考えが後に災いするのだが、最も儲けていた時に、大阪市に100万円を寄付し、世の役に立つものをと、この公会堂を建てる計画をするのである。
しかし、大正5年(1916)第一次世界大戦の好景気のなかで、株の買いが殺到するなかで、株の格言を信じ売りにまわるのだが、これが失敗し栄之助は資金繰りに窮するのである。
とうとうどうにもならず、短銃でこめかみを撃ち自ら命をたち、大阪市中央公会堂はその2年後の大正7年(1918)11月に完成するのである。

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説明文によれば、
『大阪市中央公会堂は、明治44年(1911)に大阪市民の岩本栄之助氏から公会堂のために寄付された100万円をもとに、建設されました。
日本最初の懸賞設計競技で選ばれた岡田信一郎の設計原案をもとに、辰野金吾、片岡安(やすし)という当時を代表する人たちによって設計されました。
大正2年(1913)6月から5年4ケ月をかけた工事では、延18万人を超える人々が働き、大正7年(1918)11月17日に開館しました。
西洋の建築の歴史から生まれた形や材料をよく学んで高い水準に造られており、赤煉瓦の公会堂として市民に愛され親しまれてきた、たいへん貴重な建物です。昭和63年(1988)に永久保存が決定され、より良く使っていけるよう平成11年(1999)3月から3年半の工事がおこなわれました。
平成14年(2002)11月1日に再び開館、同12月26日に国の重要文化財(建2419)に指定されました。

建築様式は、当初記述に「復興式中の準パラディヤン式」とあり、ネオ・ルネッサンス様式を基調としたものと解される。
外観は左右対称を基本にコーニス、片蓋柱、ペディメント付開口部等による厳格な構成と正面の壮大な半円アーチ、ジャイアントオーダーなどのバロック的な壮麗さをあわせ持ち、柱頭飾りを幾何学図形化するなど細部にはセセション様式の浸透もみられる。
外壁表面は地階部分が花崗岩積、地上階は、化粧煉瓦小口貼りに腰の帯石と窓廻りを花崗岩、蛇腹と片蓋柱、パラペト廻りを疑石モルタル洗い出しとし、屋根は銅板葺きで一部を天然スレート葺き、側面と四隅に屋根窓を配す。平面規模は、間口43.6メートル、奥行き61.8メートルで、建築面積2164.17平方メートル、鉄骨煉瓦造、地上3階、地下1階建。耐震性能強化のため基礎下の新たな構造体と上部構造の補強によって免震レトロフィットを実施。
主要室の構成は、1・2階/大会議室(ホール)、3階/中・小集会室・特別室、地階/会議室(展示室)・レストラン。』
                     出典:【大阪市中央公会堂の説明文】より

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大阪市中央公会堂の南側に、草に隠れるようにして建つのが「大阪通商会社・為替会社跡」の石碑。
一見すると見逃しそうな石碑なのだが、この石碑にある二つの会社が、大阪の経済発展と近代的経営に果たした役割は大きいものがある。
明治政府は、外国の列強に追いつけと、貨幣改革を進め、金目(金建て)と銀目(銀建て)の二つあったものを、金目一本とし銀目を廃止してしまう。
それと大名貸しの焦げ付きなどで、豪商の没落が相次ぐことになる。
そこで商業振興のために政府主導で、明治2年(1869)8月に、商品売買の仲介や外国貿易など商業目的の「通商会社」と、貨幣発行・資金貸出・為替・両替などの金融業務を行なう「為替会社」を設立するのである。
しかし、そんなに上手い商売もなく、4年後の明治6年(1873)には、通商会社の営業を為替会社に譲渡するのだが、為替会社もまた一番の得意先をなくし、明治7年(1874)には解散をするのである。

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僅か4、5年で終わってしまった会社だったが、その後の大阪経済に及ぼした影響は大きく、銀行や株式会社という近代的経営の礎となったのである。
碑文には、
『明治以後の大阪における産業経済発展に大きく貢献した会社・銀行の近代的経営に関する知識は、明治2年この地に設けられた大阪通商会社と為替会社によって、初めて市民の間に扶植された。』
                   出典:【大阪通商会社・為替会社跡の碑文】より

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中之島公会堂の南側には土佐堀川に架かる橋があり、その名を「栴檀木橋」とある。
浅学な自分なんかは何と読むのだろうと思いながら橋を渡ると、そこに碑文がある「せんだんのきばし」という橋だという。
この橋は土佐堀川に架かり、北区中之島と中央区北はmとを結ぶ、長さ86.4m、幅15.74mのラーメン式鉄筋コンクリートの橋である。
碑文によれば、
『栴檀木橋は、江戸時代の初期、中之島にあった蔵屋敷へ行き来するために架けられたと考えられ、その昔、橋筋に栴檀の大木があったところからその名が付けられたという。当時市中と中之島を結ぶ橋上からは、生駒連山を背景に大阪城を望み、天満・天神。難波の三大橋を眺めることができた。
明治18年、淀川大洪水が発生し、この橋をはじめ、中之島に架かる多くの橋が流された。栴檀木橋が再び姿を見せたのは大正3年のことで、以後、昭和10年に架けかえられ、中之島公園とともに、広く市民に親しまれてきた。
このたびの架けかえにあたっては、高欄に栴檀木の模様を配し、橋詰の整備も行って、この由緒ある橋の歴史を顕彰することにした。』
                           出典:【栴檀木橋の碑文】より