元禄16年(1703)、「露天神社」の森で、堂島新地天満屋の女郎・お初と内本町醤油屋平野屋の手代・徳兵衛が心中する。
これを題材に、近松門左衛門が書いたのが「曽根崎心中」である。
「露天神社」は、お初にちなんで「お初天神」と呼ばれ、「お初天神」のある商店街は、「曽根崎お初天神通り」という愛称で呼ばれている。

01露天神mid
曽根崎心中の物語は、『醤油屋の手代・徳兵衛と天満屋の遊女・お初が生玉の社(大阪城から南に3Kmの所にある)で久しぶりに偶然出会うシーンから始まる。
便りのないことを責めるお初に、徳兵衛は会えない間に自分は大変な目にあったのだと語る。
徳兵衛は、実の叔父の家で丁稚奉公をしてきた。
誠実に働くことから信頼を得て、店主の姪と結婚させて店を持たせようという話が出てきた。
徳兵衛はお初がいるからと断ったが、叔父のほうは徳兵衛が知らないうちに徳兵衛の継母相手に結納まで済ませてしまう。
固辞する徳兵衛に叔父は怒り、とうとう勘当を言い渡す。
その中身は商売などさせない。大阪から出て行け、付け払いで買った服の代金を7日以内に返せというものであった。
藤兵衛はやっとのことで継母から結納金を取り返すが、どうしても金が要るという友人・九平次に3日限りの約束でその金を貸す。

02社殿mid
徳兵衛とお初の前に九平次が現れる。
同時に、お初は喧嘩に巻きこまれるのを恐れた客に連れ去られる。
徳兵衛は、九平次に返済を迫る。が、九平次は証文まであるものを「謝金など知らぬ」と逆に徳兵衛を公衆の面前で詐欺師呼ばわりしたうえ散々に殴りつけ、面目を失わせる。
兄弟と呼べるほど信じていた男の手酷い裏切りであったが、死んで身の証を立てるより他に身の潔白を証明し、名誉を回復する手段が徳兵衛にはなかった。
徳兵衛は覚悟を決め、密かにお初のもとを訪ねる。
お初は、他の人に見つかっては大変と徳兵衛を縁の下に隠す。
そこへ九平次が客としてお初のもとを訪ねるが、素気無くされ徳兵衛の悪口をいいつつ帰る。
徳兵衛は縁の下で怒り、こぶしを震わせつつ、お初に死ぬ覚悟を伝える。
真夜中、お初と徳兵衛は手を取り合い、露天神の盛へ行く。
互いを連理の松の木に縛り覚悟を確かめ合うと、徳兵衛は脇差でお初の命を奪い、自らも命を絶つ。』
                         出典:【お初と徳兵衛の物語】より

03碑mid 04像mid
境内には、曽根崎心中ゆかりの碑と二人の像が建ち、
『此世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜。
一足づつに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ。
あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて残るひとつが今生の、鐘のひびきの聞きをさめ。
中略
誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。取伝え貴賤群集の回向の種。
未来成仏疑ひなき恋の、手本となりにけり。
近松門左衛門作「曽根崎心中」より
元禄16年4月7日、堂島新地天満屋抱えの「お初」と、内本町平野屋手代「徳兵衛」が、当社天神の森にて情死し、近松門左衛門により「曽根崎心中」として劇化され、歴史に残る大成功をおさめた。
以後当社が「お初天神」と通称されるに至る所以である。
近松の名文により、広く民衆の涙を誘うこの作品は、その後も幾度となく繰返し上演され、今日でも人々の回向が絶えず、恋の成就を願う若人が数多く参拝される。
この碑は、「曽根崎心中 お初 藤兵衛 ゆかりの地」として、恋に殉じた二人を哀れみ、有志により建立されしもの也。』
                     出典:【曽根崎心中ゆかりの碑の駒札】より