大阪駅から西南にお初天神通りを抜けると「お初天神」である。
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通称「お初天神」と呼ばれる「露天神社」は、その昔この地は大阪湾に浮かぶ小島のひとつで、そこに「住吉住地曽称神」を祀っていたと伝えられ、創建は嘉祥3年(850)頃といい「難波八十島祭」旧跡の一社である。
曽根崎洲も南北朝時代には地続きとなり、この頃に北渡辺国分寺から渡辺一族が移住し、田畑を拓き露天神社を鎮守の神とし曽根崎村起している。
明治7年(1874)に梅田停車場(大阪駅)が、明治38年(1905)に阪神電気鉄道(阪神)が出入橋駅が、明治43年(1910)に京阪神急行電鉄(阪急)が梅田駅を開業し、地域は劇的に発展するのである。
太平洋戦争で殆どの建物は消失するのだが、地域とともに発展し曽根崎・梅田の総鎮守社として崇敬を集め現在に至っている。

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露天神の名のおこりは、昌泰 ( しょうたい )4年(901)菅原道真が大宰府に左遷される途中、ここで京の都を偲び「露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを 想い出づれば」と詠んだという故事にちなみ、その名が付けられたという。
また梅雨のころに清水が湧く井戸が境内にあることから付いたとも云われる。
境内には「御井社・祓戸社」があり、『祭神は「御井神:古くより露ノ井と称され、人々の暮らしを支え信仰の対象でもありしこの御井に坐す神」と「祓戸四柱ノ大神:瀬織津比咩大神・速開都比咩大神・気吹戸主大神・速佐良比咩大神、軽重様々、全ての罪や穢を祓え給う神々」
社殿真下の御井は、往時四天王寺の亀の井・清水寺の井・二つ井戸と共に「浪速七名井」の一つなりと称され、梅雨時期には清水が井戸縁より湧出せし、という。
名井「露ノ井」として当社社名の由来の一つともいわれ、周辺地域を始め、社地前旧池田街道を行き通う人々の貴重な清水であった。』
                        出典:【御井社・祓戸社の駒札】より

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由緒略記には、
『社伝によれば、創建は壱千百有余年を遡り、文徳天皇の御代、嘉祥3年(850)に定め給いし「難波八十島祭」の旧蹟にも数えられ、「住吉住地曽称神」を祀ると伝えられる。
住地此の地は、曽根州と称する孤島にて、曽根洲、後の曽根崎の地名はこの御神名より起こる。
平安期、渡辺十郎源契来りて入植せしより、渡辺氏一族を始め、移植の民次第に増し、曽根崎村へと発展し、当社も産土紙「曽根崎天神」として尊崇された。
現在も梅田、曽根崎地区の鎮守として信仰を集めている。
昌泰4年(901)菅原道真公筑紫に左遷配流の途次、当地を過ぎ給う砌(みぎり)、境内の草木露深ければ、
露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを 想い出づれば
と詠ぜられ、菅公大宰府にて御他界の後、その遺徳を偲び奉り合祀し、上の御歌より「露ノ天神社」と称する。
元禄16年4月7日堂島新地天満屋抱えの「お初」と、内本町醤油屋平野屋の手代「徳兵衛」、当社「天神の森」にて情死し、日を置かず時の戯曲作家「近松門左衛門」により「曽根崎心中」として劇化された。
以後上演の度、男女身分の差無く多数の民衆観劇し、挙(こぞ)って当社に参詣慰霊に訪れたと云う。
「お初天神」と通称される所以である。』
                          出典:【露天神社由緒略記】より