心中天網島で小春と治兵衛が曽根崎新地の天満屋から網島の大長寺へは、蜆川に沿っての道行となるのだが、その場面が名残の橋づくしとして書き込まれている。
梅田橋跡
01梅田橋(1)mid
新福島の駅から随分と遠回り(なにわ筋を玉江橋まで、堂島右岸を田蓑橋で北に歩き、堂島三丁目の交差点に)をし、蜆川に最初に架かった「梅田橋」があった跡に着いた。
堂島三丁目のこの辺りに、梅田橋が架かっていたという。
この橋は、蜆川の北にあった大坂七墓(梅田、浜、葭原(よしわら)、蒲生(がもう)、小橋(おばせ)、飛田、千日の七つだが、明治になって移転をし、今ではその跡を知るすべもない。)の一つ、梅田墓地に行く為に架けられた橋だという。
天保13年(1842)に出来た曽根崎新地の中心地はこの梅田橋周辺だったようで、近松の「曽根崎心中」や「心中天網島」の道行きもこの梅田橋を越えることから始まっている。
「曽根崎心中」のお初・徳兵衛の道行きには、
『此の世のなごり、夜もなごり。死ににゆく身をたとふれば、あだしが原の道の霜。
一足づつに消えて行く。夢の夢こそ哀れれなれ。
あれ数ふれば暁の、七つの時が六つなりて、残る一つが今生の、鐘の響の聞きおさめ。寂滅為楽と響くなり。
鐘ばかりかは、草も木も。空もなごりと見上ぐれば。雲心なき水の音、北斗はさえて影うつる、星の妹背の天の川。
梅田の橋を鵲(かさゝぎ)の橋と契りて、いつまでも。我とそなたは女夫星。かならず添ふとすがり寄り、二人が中に降る涙。』と描かれている。

02梅田橋(2)mid
また「心中天網島」では、小春と冶兵衛の道行きが始まる天満屋のあった所で、ここから網島の大長寺までが、二人が手に手を取っての道行きとなる。
その一説に「名残の橋づくし」として、
『頃は十月十五夜の・・・いとし、かはいと締めて寝し移り香も、なんとながれの「蜆川」。朝夕渡るこの橋の、「天神橋」はその昔、菅丞相(かんしょうじょう:菅原道真)と申せし時、筑紫へ流され給ひしに、君を慕ひて大宰府へ、たった一飛び「梅田橋」。
あと追ひ松の「緑橋」。別れを嘆き悲しみて、後にこがるる「桜橋」。
元はと問へば分別の、あのいたいけな貝殻に、一杯もなき「蜆橋」。
十九と二十八年の今日の今宵を限りにて、二人のいのちの捨て所、丸三年も馴染みまで、この災難に「大江橋」。
あれ見や「難波小橋」から
ここまでが蜆川(曽根崎川)に架かっていた橋であった。

この先、綱島の大長寺までの道行きは・・・
「舟入橋」の浜伝ひ、冥途の道が近づくと、嘆けば女も縋り寄りて、もうこの道が冥途かと、落つる涙に「堀川の橋」も水に浸るらん。
南へ渡る橋柱、数も限らぬ家々を、いかに名付けて「八軒屋」。
誰と伏見の下り船、着かぬ内にと道急ぐ、この世を捨てて行く身には、聞くも恐ろし「天満橋」。
「淀」と「大和」の二(ふた)川を一つ流れの「大川」や、水と魚は連れて行く、我も小春と二人づれ。
大慈大悲の普門品(ふもんぼん)、妙法蓮華「きやう橋(京橋)」を、越ゆれば至る彼の岸の、玉の台(うてな)にのりをへて、仏の姿に身「をなり橋(御成橋)」。
手に百八の玉の緒を涙の玉にくりまぜて、南無「あみ島(網島)」の「大長寺」、薮の外面(そとも)のいさら川、流れみなぎる樋の上を、最期、所と着きにける。』

桜橋跡
03桜橋mid
大阪駅前第一ビルがある、国道2号線(曽根崎通)と四つ橋筋の交差する所が、桜橋の交差点である。
桜橋の名は、交差点にその名を残しているが、橋は存在しない。
四つ橋筋は北行の一方通行で、明治41年(1908)に大阪市電の開通とともに造られた幹線道路で、御堂筋よりも古い道路である。
蜆川に架かっていた「桜橋」は、現在の桜橋の交差点から50mほど、南に下った四つ橋筋に架かっていて、京富ビルの南西角に「元桜橋南詰」の石碑が立ち、ここに橋があったことを偲ばせる。
桜橋の名は、桜の木が倒れ橋となったことから、こう呼ばれたという。
近松は「心中天の網島」で、「別れを嘆き悲しみて、後にこがるる桜橋」と書いている。

蜆橋の碑
04しじみはし(1)mid
北新地文化銘板の点在する新地本通を、東に抜けると御堂筋である。
その御堂筋を南に一筋目の西の角、滋賀銀行の壁に埋もれてあるのが、ここに蜆橋があったことを偲ばせる「しじみはし」の石碑。
蜆橋は、近松の「心中天網島」で、名残の橋づくしに出てくる。蜆橋の上流には難波小橋が架かるのだが、小春と冶兵衛がこの蜆橋を渡り、網島にあった大長寺あたりで心中をするのである。

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今では御堂筋といえば大阪を代表する通りであるのだが、その昔も酔客が渡った橋のようである。
蜆橋については、時は幕末、文久3年(1863)6月の夜半に、大坂で浪士取締りを依頼された新選組の、芹沢鴨、近藤勇、山南敬助、沖田総司、井上源三郎、平山五郎、野口健司、永倉新八、原田左之助、斎藤一のうち、近藤と井上を除く8名が役目を果たし北の新地で遊んで帰る途中、蜆橋の上で、相撲取りの一行と道を譲れ、譲らないの口論となり、芹沢が鉄扇で相撲取りの一人を打ち据えるのである。
その場は治まるが、遊郭で遊ぶ芹沢などに、力士たち20~30人が仕返しに乗り込んでくるのだが、さすがに一騎当千のつわもの揃いの新選組、修羅場をくぐり抜けた者の強みで、力士数名を脇差で手傷を負わせるのである。これが元で熊川熊次郎が亡くなるが、この事件を取り調べたのが当時の大坂奉行所の筆頭与力、内山彦次郎で、この時のやり取りが、後の天神橋での内山暗殺へとつながってゆくのである。