『曽根崎川』(平成19年(2007)発売)
作詞:峰崎 林二郎、作曲:たかせ はるひこ、歌:かわたり 京子
曽根崎心中の舞台となった曽根崎川をテーマに、お初徳兵衛の道行を・・・
「お初徳兵衛教えておくれ 舟をつないで曽根崎川に」/「お初天神守っておくれ 月を浮かべた曽根崎川に」/「恋に焦がれたお初のように 行く手夢見て曽根崎川を」と歌う。
堂島川が大江橋の手前で北に分岐して流れるのが曽根崎川で、北新地の新地本通と堂島上通の間を西に、堂島掘割筋辺りから上福島南通の南側沿いに流れ、堂島大橋を過ぎた辺りで再び堂島川と合流していたのである。
曽根崎川が蜆川と呼ばれるのは、この川で堂島蜆が多く取れたことに由来するという。
江戸時代の元禄初期に、河村瑞賢により改修され、曽根崎新地が開かれ、上流から難波小橋、蜆橋(御堂筋と交差する所)、曽根崎橋、桜橋(四つ橋筋)緑橋、梅田橋(堂島3丁目交差点あたり)の橋が架かっていた。
曽根崎新地の中心地は梅田橋周辺にあり、近松門左衛門の「心中天の網島」の小春と治兵衛の道行きがの舞台となる大和屋もここにあった。
明治42年(1909)に北の大火が起り、瓦礫の廃棄場所として曽根崎川が選ばれ緑橋より上流が埋め立てられ、大正13年(1924)には下流も埋め立てられて曽根崎川は無くなってしまうのである。
新地本通のなかほどにあるのが「曽根崎川跡」と「志じみばし」の二つの碑。
「曽根崎川跡」の碑分によれば、
『曽根崎川はかつて堂島川から分かれて、ここから少し南寄りのところを東西に流れ、俗に蜆川ともいわれていた。
元禄年間に河村瑞軒がこの川を改修してから堂島新地・曽根崎新地が開かれた。
そのころの新地の茶屋は蔵屋敷や商家の人々のつどうところとして親しまれ、このあたりからは北野や中津の田畑越しに北摂の山々が遠望でき、夏の夕べには涼み舟がこの川からこぎ出たという。
近松門左衛門の作品には、堂島新地・曽根崎新地を舞台にしたものがあり、なかでも「心中天網島」(1720の作)の一節名残の橋づくしには、当時曽根崎川にかけられていた難波小橋・蜆橋・桜橋・梅田橋の名がたくみにとりいれられている。
しかしこの曽根崎川も明治42年(1909)の北の大火後に上流部、ついで大正13年(1924)には下流部が埋立てられ、昭和20年(1945)の戦災でこのあたり一帯は焼失したが、今日では北の新地としてにぎわいをとりもどしている。』
出典:【曽根崎川跡の碑文】より
そのそばにある「志じみばし」の碑は、木谷蓬吟が近松を偲び銘文を書き綴ったもので、
碑文には、
『小春治兵衛の涙川、そこに架けられた、いたいけない蜆橋も、大近松の靈筆に彩られて、世界的に尽きせぬ、艶名を謳はれてゐる。
其、蜆橋志ゞみ川も大火後、地下に埋もれては貝殻の跡形なきを憾みとしたが、盛大堂主高橋氏の配剤により、茲に不朽の記念標誕生を見ること、将に起死回生の快事である
昭和二年夏越日 木谷蓬吟識』
出典:【志じみばしの碑文】より
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youhobito
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