ここでは堂島川に架かる橋を眺めてみよう。
天神橋(天神橋筋)
天神橋は大川の天神橋筋に架かる橋で、北区天神橋と中央区北浜東を結ぶ210.7mの橋である。
大正4年(1915)に中之島が上流に拡張されたことにより、堂島川と土佐堀川の二つの川を渡っている。
文禄3年(1594)に架けられたと云われ、難波橋、天満橋と共に浪華三大橋と呼ばれ、天神橋が最も長い橋である。
橋の畔にある、天神橋歴碑によれば、
『天神橋は豊臣秀吉のころ初めて架けられ、天満宮が管理していたことから天神橋になったと社伝は伝えている。
寛永11年(1634)他の11橋とともに公儀橋となった。
中でも天満橋・難波橋とともに浪華の三大橋と親しまれ、「天神橋長いなー落ちたら恐いなー」と童歌にも歌われた。
明治初期までは木橋であったが、明治18年の大水害で流失、同21年鉄橋に架けかえられた。
この橋は、ドイツより輸入されたトラス橋で当時全国で最も長径間の道路橋であった。
現在の橋は松屋町筋の拡張に合せ、昭和9年に3連の軽快な鋼製アーチと両端をコンクリートアーチより成った全長210.7mで架設されている。』
出典:【天神橋歴碑の碑文】より
とあり、天神橋の南詰は天神橋交差点であり、ここから北が天神橋筋、南が松屋町筋となる。
またこの橋では、大坂西町奉行与力の内山彦次郎が天誅として暗殺された所でもある。
幕末の頃の天神橋は250mほどの木橋で、文久3年(1863)5月に、護衛を連れ駕籠に乗った内山がこの橋を渡り掛けた所、突如、数人の暗殺者が現れ、内山を駕籠の外から槍で突き、さらに駕籠から引き出して、両腕を切断し首を掻き切って斬殺をする。
この犯人が新選組だとされているのだが、真偽のほどは定かではない。
内山は、大塩平八郎の乱では、大塩父子の発見と捕縛に関わっている。
もともと汚職疑惑もあり、大塩が老中に宛てた建議書でも、内山を非難していることなどから、倒幕派の志士によって暗殺されたという説もささやかれているのである。
難波橋(堺筋)
難波橋は大川の堺筋に架かる橋で、北区西天満と中央区北浜を結ぶ189.7mの橋である。
この橋も天神橋と同じく、大正4年(1915)に中之島が上流に拡張されたことにより、堂島川と土佐堀川の二つの川を渡っている。
橋の真ん中で、下流側に中之島通に分かれ、上流側に中之島公園に降りる階段がある。
大宝4年(704)に行基によって架けられたと云われ、天満橋、天神橋、難波橋と浪華三大橋の一番西に位置している。
明治末期まで一筋西の難波橋筋に架かっていたのだが、明治45年(1912)に市電がこの橋を渡ることに反対運動が起り、堺筋にパリのセーヌ川に架かる橋を参考に新しい橋が架けられた。
この橋が現在の難波橋で、旧橋は中之島通が出来るときに撤去されている。
橋の南北には花崗岩の獅子像(ライオンの石像)が左右にあることから「ライオン橋」の愛称で呼ばれることもある。
大江橋(御堂筋)
大江橋は堂島川の御堂筋に架かる橋で、北区堂島浜と北区中之島を結ぶ81.5mの橋である。
橋が架けられたのは、江戸時代の元禄年間、堂島の開発に伴って架けられた堂島五橋(大江橋・渡辺橋・田蓑橋・堀江橋(現玉江橋)・船津橋)の一つである。
明治18年(1885)淀川の洪水で流失、さらに明治42年(1909)北の大火で消失をしてしまう。
現在の橋は、御堂筋の拡幅に伴ない、一般公募のデザインコンペが行われ、昭和10年(1935)に現在の鉄筋コンクリートのアーチ橋として架け替えられ、今に至っている。
御堂筋の土佐堀川に架かる淀屋橋と共に、コンクリートの橋としては珍しく重要文化財に指定されている。
玉江橋(なにわ筋:旧堀江橋)
玉江橋は堂島川のなにわ筋に架かる橋で、福島区福島一丁目と北区中之島四丁目とを結ぶ橋で、上流と下流とに架かる橋の長さが微妙に違い、上流77m、下流78.8mとなっている。
江戸時代元禄の頃に、堂島開発とともに架けられた橋であり、当初は「堀江橋」と呼ばれていた。
またこの橋から、南の方向に四天王寺の五重塔が見えると言われ、大坂の七不思議の一つとされていた。
当時は高い建物とてなく、少し高くなった橋の上から四天王寺の伽藍で一番高い五重塔が見渡せたのであろう。
今では、ここから本当に見えたのか確認するよすがもないのだが・・・。
玉江橋のそばにあった碑文によると、
『この橋の架かる堂島川に、本格的な架橋が始まったのは元禄初期(1690ころ)と考えられる。
この玉江橋も、そのころから堀江橋の名で架かっていた。
その後、元禄11年(1698)になって堀江川が開削され、そこに同名の橋が架けられたので、玉江橋に改名されたという。
当時の堂島川は、大川につぐ大きな川幅をもち、安永9年(1780)の記録によると橋長約90.1m、幅員約4.1mの規模をもつ反りの大きい橋であった。
江戸時代、この橋の南詰めに薬師堂があって、縁日には多くの人出で賑わった。
参詣の人々は、橋の上からその延長方向(南東方向)を見ると、はるかかなたに四天王寺の五重塔が望見できたので、橋上から遥拝する習慣があった。
高層建築物に囲まれた今日では、想像もできない情景であるが、当時の名所図絵の類には多く登場している。
現在の橋は、昭和4年9月の第一次都市計画事業によって、橋長77.0m、幅員12.3mの橋に架け換えられた。
それ以後、地盤沈下対策で、昭和42年に約2m嵩上げすると同時に、下流側に橋長78.8m、幅員12.3mの橋が新しく架けられた。』
出典:【玉江橋の説明文】より
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