『大阪ろまん』(昭和41年(1966)発売)
作詞:石浜 恒夫、作曲:吉田 正、歌:フランク永井
「いちょうネグラの堂島すずめ 恋を意気地の文楽人形」/「夫婦ぜんざい笑うて泣いて めしの看板人情喜劇」/「逢いに北浜浮世の小路 橋の下には鴎がいやる」とフランク永井が大阪の情景を歌い込む。
蜆川が流れていた頃の堂島は、堂島川との挟まれた中州の島であり、ここに堂宇を築いて薬師如来を祀ったところから、「御堂の島」と呼ばれ「堂島」と名付けられたのだという。
堂宇の建立は、聖徳太子の四天王寺創建時というから、随分古い時代なのだが、現在のお堂は、平成11年(1999)に、堂島アバンザが建てられる時に、その庭園内に再建をされる。
外観をみると、薬師堂とは想像もつかず、ミラーガラス127枚と石で出来た、球状の建物となっている。
これは周囲の建物に溶け込むようにとの配慮からだというのだが、このほうが随分と違和感があり、むしろ古い社のほうが都会に一抹の清涼感を与えるのではないだろうか。
薬師堂の由来によると、
『西暦593年、推古朝のころの史料に「東は玉造に四天王寺をつくり、西の方洲の中に御堂を建立」の記録があるという。
また、延宝3年(1675年)に書かれた古文書「芦分船(あしわけぶね)」にも「聖徳太子が四天王寺創建時に、建築用材の運搬船が暴風雨で難破、洲の中に流れつき、お堂を建てた」との記述があり、これが薬師堂の起源と言われている。
お堂内には、薬師如来像、地蔵菩薩像、弘法大師像など仏像四体と、ねはん図など軸二本がおまつりしてある。
薬師如来像は室町時代の作と鑑定されているが、その由来は定かでない。
また、弘法大師像は薬師如来像よりも歴史が古いと伝えられており、明治26年(1893年)からの大阪大師詣りの行事では薬師堂を第一番の霊場として、一日数十万人の参詣者で賑わうほどであった。
堂島薬師堂は堂島の世相、経済と連動しながら栄枯盛衰を繰り返し、現在は、月2回の法要と、節分の日に、厄払いと鬼追い行事を行っている。』
出典:【堂島薬師堂の由来】より
堂島といえば、大阪北区のイメージが強いのだが、実は福島も含めて堂島なのである。
もともと堂島は堂島川の北に出来た中州であり、その分流である曽根崎川を改修し、堂島新地を造ったことに由来をする。
大阪の北にあったことから、南の新地に対し、北の色里と呼ばれ、江戸時代には大層賑わったという。
明治になり42年(1909)に、曽根崎川が埋め立てられ、川向こうの曽根崎新地が繋がると、堂島新地が曽根崎新地に吸収され今の北新地へと発展していくのである。
堂島は曽根崎新地から、蜆川(曽根崎川)の南までをいい、今では福島区となっている、堂島浜通三、四丁目も堂島と呼ばれていたのである。
なにわ筋の上天神南の南西に、町名継承碑 堂島浜通三~四丁目の碑が建つ。
それによれば、
『当町は明治初頭、大坂三郷天満組の一部であった。
明治22年4月市制の施行にともない大阪市北区堂島浜通三、四丁目となった。
昭和18年4月行政区画の変更にともない江戸堀十三線西側以西の堂島浜通三丁目および堂島浜通四丁目全域が福島区に編入された。
同50年9月住居表示の実施にともない福島一~三丁目・玉川一丁目の各一部となった。
町名は町域が堂島川の浜沿いに位置したことによる。』
出典:【町名継承碑 堂島浜通三~四丁目の碑文】より
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