滋賀といえば琵琶湖が浮かぶ。
海のない県だが琵琶湖を湖(うみ)と呼び、海無し県だと一瞬思われない。
琵琶湖のことは後ほど触れることにして、滋賀で行った所を綴ってみようと思う。
ご当地そんぐは、
『江州音頭』(滋賀県郷土芸能:明治初頭)
滋賀に初めて足を踏み入れたのは、
01箱館山mid
会社に入って2年目の冬に、スキーに行こうと誘われた。
それまで寒いのが苦手で、寒いスキーなどとんでもないと思っていたが、とにかく一度行ってみろと誘われ、日帰りで琵琶湖の西側にある箱館山スキー場に連れていってもらう事となった。
スキー場でスキーの板を借りて、止まり方と曲がり方を教えて貰って、リフトで上まで   連れていかれた。
リフトにも上手く乗れず、降りることもままならないまま上まで行って、皆は教えたとおりに降りて来いと言って、其の儘滑り降りて行った。
とにかく下まで降りなくてはと、斜滑降で滑り始め、教えられた通りに曲がろうとしたが、曲がりきれず直滑降になり、其の儘、真直ぐに滑りだしてしまった。
段々、速度は出るし止まるに止まれず、2/3位滑り降りたところでコブに足を取られ、板は両方とも足から外れ、どっちが上か下かも分からない程に、物の見事にひっくり返ってしまった。
しかし、これ程激しくひっくり返っても足を折ることもなく、怪我もなく、これでスキー   に対する恐怖心がなくなり、一遍でスキーの魅惑に魅せられてしまい、これから毎年スキーに行くはめになるのであるのだが・・・
これが初めて滋賀に足を踏み入れた時だったように思うおである。

JR琵琶湖線の石山駅から京阪バスで南に30分、瀬田川沿い西側の山の中にあるのが「立木観音」である。
02立木観音mid
立木山安養寺と言い、バスを降りるとすぐに石段があり、その石段を登ると境内だと思うとこれがなかなかである。
この先さらに石段が続き、なんと800余段あるのである。
今ではとても本堂まで行きつくことは出来ないだろうと感じている次第である。
縁起によれば、
『茲に近江国厄除立木観世音は、弘法大師の御自作也。
その来歴を尋ぬるに、人皇五十二代嵯峨天皇の御宇、弘仁6年大師四十二歳の御時、諸国行脚し給う折柄、此山に光を放つ霊木あり。
奇異の思ひをなして近寄らんとし給うに、前に一帯の大河あり。
暫く川の邊りに佇み玉ふに不思議なる哉、白き雄鹿忽然と出現し、即ち大師を背に乗せ大河を跳び渡り、霊木の前に導き白鹿、即ち観世音と化現し光明を放ちて、虚空に消散し玉ふ。
大師歓喜に堪へず是れ即ち我が有縁の霊地ならんと、其の霊木に向ひ誓願を起し、夫れ人の危難あるは殊に四十二歳の厄年なり。
我れ既に厄年なれば厄除の為め、且は末世の衆生の諸々危難、厄病を除き給わん事を祈念し、即ち立木のまゝ御身の丈に合して、五尺三寸の聖観世音の尊像を彫刻し玉ひ、その餘木を以て御脇立毘沙門天、廣目天又は大師の眞影に至るまで彫刻し、堂宇を結び安置せしめ玉ふなり。
斯かる不思議の霊像なれば参詣の人々諸々の厄難、厄病を遁れ、諸願成就せずと畏怖事なし。
其後、紀州高野山を開基し玉ふ。故に當山を元高野山と云ふ。
誠に千有餘年の霊地なれば、信心の輩には感應まします事、疑ひなし。
依て世人い知らしむるものなり。』
                          出典:【立木観世音御縁起】より
要は、弘法大師が42才の時、ここで光を放つ霊木を見つけたが、目の前に大河があり思案していると、白い鹿が現れて大師を背に乗せて大河を越え、霊木の前に来ると観世音菩薩となり、光を放って消え去った。
それに感激した大師は、立木に等身大の五尺三寸の世音像を刻み、余木で御脇立毘沙門天、廣目天を刻み、堂宇を縦安置したのが当山の始まりという。

信楽には、JR琵琶湖線の「草津」から草津線の「貴生川(きぶがわ)」で、信楽高原鉄道に乗り換えて、終点の「信楽」で降りる。
03信楽mid
信楽は滋賀県の南端、甲賀市の西にあり、周囲を標高300m~400mの山々山で囲まれた焼き物の町として、日本六古窯のひとつ「信楽焼」や、日本五大銘茶「朝宮茶」の生産地として知られている。
日本六古窯は、瀬戸(愛知)・常滑(愛知)・越前(福井)・丹波(兵庫)・備前(岡山)と信楽の六窯を云い、日本五大銘茶は、狭山(埼玉)・川根(静岡)・本山(静岡)・宇治(京都)と朝宮の五つを云う。
信楽焼は、鎌倉時代から焼き物の町として営まれており、火鉢や植木鉢、茶器などの道具や器を作ってきた。
中でも狸の焼き物「信楽たぬき」は有名で、どこの店にもたぬきの焼き物が飾られている。
信楽たぬきには「八相縁起」といって八つの縁起があり、
「笠」は、思いがけない災難から身を守る
「笑顔」は、常に笑顔で愛想良く
「目」は、周囲を見渡して、気配りと正しい判断を行う
「腹」は、冷静さと大胆さを持ち
「徳利」は、飲食に困らず、人徳に通じ
「通帳」は、信用第一
「金袋」は、金運に恵まれる
「尻尾」は、終わりよければ全て良し
の縁起を表しているのだと云う・
また奈良時代の天平15年(743)に、聖武天皇が紫香楽の地に盧舎那仏を建立する為に、恭仁宮の造営を中止して紫香楽宮の造営を進めたが、山火事や天平地震などで思うようにいかず、天平17年(745)に平城京へと戻り、幻の都となったのである。
大仏造営は引き続き平城京で続けられ、東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)として完成するのである。