『金色夜叉』(大正7年(1918))
作詞:作曲:後藤紫雲・宮島郁芳(演歌師)
熱海といえば、熱海の海岸を散歩する貫一とお宮である。
いうまでもなく金色夜叉のクライマックス熱海の海岸で貫一とお宮の別れの場面である。
「金色夜叉」を「きんいろよまた」と読むという漫才があったが、最近ではジョークではなく本当に「きんいろよまた」と読む人がいて「こんじきやしゃ」と読めない人がいるらしいという話が聞こえてきた。
熱海の海岸には貫一とお宮の像が建っていて、熱海梅園に行くバスの中から見ることが出来た。
金色夜叉は明治30年(1897)に、尾崎紅葉が読売新聞に連載を始めた小説で、明治35年(1902)に病で中断され、翌年に紅葉が亡くなり未完のままとなる。
その後、明治42年(1909)に紅葉の門下生であった小栗風葉(ふうよう)が「終論金色夜叉」を書き、完結させるのである。
金色夜叉は、一高の学生・間貫一(はざま かんいち)と許婚であった鴫沢宮(しぎさわ みや)との悲恋の物語であり、その別れの場が熱海の海岸で、そのことで熱海の名が全国に知られるようになる。
金色夜叉の歌は、
『共に歩むも、共に語るも今日限りと熱海の海岸散歩する貫一とお宮/学校がおわるまで待てなかったのは、夫に不足か金のためか/夫に不足はないのだが、あなたを洋行させたいため、親の言うとおり、富山に嫁に行きます/宮さん貫一は男なり、理想の妻を金に替え、洋行などはしない
「宮さん必ず来年の今月今夜のこの月は、僕の涙でくもらせて、見せるよ男子の意気地から」
ダイヤモンドに目がくらんで、乗ってはならぬ玉の輿に乗ったが、人は身持ちが第一よ/恋に破れた貫一は、すがるお宮をつきはなし、無念の涙を流した渚を、月が淋しく照らしている』
と、熱海の海岸での別れをよく描写しているのである。
貫一がお宮を蹴り倒す、熱海の海岸の場面で、貫一が「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」という有名な台詞は、舞台や映画で原文を簡略したもので、尾崎紅葉は、「吁(ああ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。
お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。
一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。
来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか!
再来年の今月今夜・・・十年後(のち)の今月今夜・・・一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!
可いか、宮さん、一月の十七日だ。
来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が・・・月が・・・月が・・・曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」と書いている。
金色夜叉と熱海の碑文には、
『明治の文豪尾崎紅葉の代表作小説、金色夜叉は、明治30年1月1日から五年半に亘り読売新聞に連載され、たちまち単行本になり、劇化されるなど当時空前の反響を呼び起こしました。
ストーリーは、ヒロインの鴫沢宮(しぎさわ みや)がカルタ会の席で、銀行家の息子富山唯継に見染められた。
しかし、宮には第一高等中学校の生徒あった婚約者間貫一(はざま かんいち)がいたにもかかわらず、宮の両親はそれを承知の上で富山の求婚を受け入れたことにはじまる悲恋物語であり、作中のクライマックスの場に熱海の海岸が選ばれたことと、金色夜叉の歌
熱海の海岸散歩する/貫一お宮の二人連れ/共に歩むも今日限り/共に語るも今日限り」
が広く人々に愛唱されたことから、熱海は一躍脚光を浴びるようになり、今日、国際観光温泉文化都市として、全国有数の観光地に発展を成し得たのは、丹那トンネルの開通と共に、金色夜叉が大きなきっかけになったことは申すまでもありません。
金色夜叉の主人公貫一とお宮の名は「一月の十七日来年の今月今夜は、貫一は何處で此の月を見るのだか!再来年の今月今夜・・・十年後の今月今夜・・・」の名台詞と共に、歳月の移り変わりにもかかわらず、人々の記憶に残り、いつまでも愛されていくことでしょう。
紅葉は、37歳の若さで死去し金色夜叉はついに未完に終わってしまいましたが、紅葉の死後、彼の残した「腹案覚書」をもとに紅葉の高弟であった小栗風葉によって完成されたのであります。』
出典:【金色夜叉と熱海】より
ちなみに「新聞からご当地ソングが聴こえてくる」の静岡のご当地そんぐは、
『天城越え』(昭和61年(1986)発売)
作詞:吉岡 治、作曲:弦 哲也、歌:石川 さゆり である。
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