『熱海の夜』(昭和44年(1969)発売)
作詞:荒川 和夫、作曲:山岡 俊弘、歌:箱崎 晋一郎
01熱海mid
静岡ではここしか行ったことがない熱海である。
熱海の歴史は古く、奈良時代の天平勝宝元年(749)、海中に湧く温泉で魚が棲みつかず困っていた人々のために、箱根権現の万巻(まんがん)が法力により、現在の「大湯間歇泉の地」に温泉を移し、湯前(ゆぜん)神社をつくって、人々が温泉の恩恵に浴することが出来るようにしたのが始まりと云われている。
鎌倉時代に、源頼朝が伊豆山権現と箱根権現の二所詣を始めると、湯前神社は湯治の神として信仰を集め、江戸時代の慶長9年(1604)、徳川家康が二人の子を連れ、熱海を訪れたという記録が残っており、江戸城にも熱海の湯を運ばせたという。
江戸時代には、家yすや多くの大名たちが湯治温泉として利用されてきたが、明治になり多くの要人の別荘や外国人が逗留し、尾崎紅葉の「金色夜叉」の舞台として知られるようになり、一大観光地となるのである。
熱海には、温泉地として日本初のものとして、
西洋式温泉分析報告書
明治7年(1874)に、初めての西洋式温泉分析報告書を作成する。
温泉に関する取締規則の制定
明治16年(1883)に、「熱海温泉噴出地取締方」と「熱海温泉場営業人申合規則」が制定されている。
温泉療養施設の設立
明治18年(1885)に、保養施設「噏滊舘(きゅうきかん)を設立する。
御用邸の建設
明治21年(1888)に、温泉地としては初めての御用邸が建設された。
市外電話発祥の地
明治22年(1889)に、市外電話回線が東京~熱海間に設けられる。
昭和の高度経済成長期には年間500万人が宿泊し、日本有数の観光地として賑わった。

02福々の湯mid 03顔パネルmid
熱海の駅前には、平和通り商店街と仲見世商店街の二つがあり熱海の駅を出て右に、駅に近い山側にあるのが平和通り商店街である。
350mのアーケードには、干物店・土産物店や海鮮食堂の店などが並び、熱海プリンや温泉まんじゅうなどのスイーツ売られている。
途中には、温泉に浸かることなく手湯で温泉を感じることが出来る「福福の湯」がある。
駒札には、
『「福福の湯」に手を浸し温泉の暖かさを感じて幸わせになって下さい。(御前十時~午後五時迄)
この温泉の源泉名は「福々温泉」で、地中三珀メートルから湧出しており、温泉の音頭は76.7度です。
「手湯」は40度に調節して有ります。
〈泉質〉カルシウム・ナトリウム・塩化物温泉
〈効能〉神経痛・関節痛・疲労回復・きりきず・やけど・慢性婦人病 その他成分表は別記のとおりです。
熱海市の源泉数は五百ケ所、平均温度は約63度、総湧出量は約16.564リットル/分、高温泉の数は、東日本の温泉地で一番多い地域です。』
出典:【手湯「福々の湯」の駒札】より
その横には、金色夜叉の貫一・お宮の顔はめパネルと熱海花火大会のパネルがあり、温泉街の雰囲気も味わえる。
仲見世商店街は海側にある商店街で、平和通り商店街より短かく南西に直線敵に伸びている。
この商店街で昼食に「シラス丼」を食べたことを思い出した。

04MOA美術館mid 05MOAmid
熱海には「MOA美術館」という私立の美術館があり、ここには一度行ってみたいと思っていたので、熱海駅から8番乗り場のバスに乗り、山側に向って7分ほど走ると終点の「MOA美術館」に着く。
「MOA美術館」は、世界救世教の教祖である岡田茂吉が創設したもので、「Mokichi  Okada  Association」の頭文字を取って名付けられた。
熱海の高台というか山ひとつを美術館にしたようなもので、エントランスを入ると目の前には、上へ上へと続くエスカレーターが、総延長200m、高低差60mを7基のエスカレーターを乗り継いで、美術館へとたどり着くという趣向が待っている。
これに度肝を抜かれてしまい、美術館の印象はこのエスカレーターの記憶が鮮明に残りすぎて、後の記憶が残っていないのであるのだが、ここには国宝3点、
「紅白梅図屏風」 尾形光琳 江戸時代18世紀
「手鑑「翰墨城(かんぼくじょう)」 奈良時代 8~15世紀
「色絵藤花文茶壺」 野々村仁清 江戸時代17世紀 があり、
重要文化財67点、重要美術品47点など約3,500点が所蔵されている。