郡上八幡で見かけた歌碑2題
郡上八幡北町大火記念釋迢空歌碑
01折口信夫歌碑mid
釋迢空とは、明治20年(1887)から昭和28年(1953)を生きた、民族学者、国文学者の折口信夫(おりぐち しのぶ)で、また釋迢空(しゃくちょうくう)と号した詩人、歌人であった。
歌碑の駒札によれば、
『折口信夫(1887~1953)は古典学者、民俗学者として高名であり、また釈迢空の名で詩人、歌人としても活躍し、国学院大学、慶応大学の教授を兼任した文学博士である。
氏は、大正8年8月に柳田国男のすすめにより郡上へ来遊したが、あたかも7月16日の北町の昼火事に町の目抜通りをはじめ、ほとんどが焼け亡んでいた。
焼け跡に立った氏は、その情景を歌に詠み、後に歌集「海やまのあひだ」に七首が収録された。
この歌碑の歌
「焼け原の 町のもなかを 行く水の せゝらぎ澄みて 秋近つけり」
はその冒頭の一首である。
昭和26年10月18日に氏は郡上へ再遊し、戦死した愛弟子山川弘至の霊を弔い 郡上高校で講演したが歌碑の筆跡は、その節、弟子の山内明の請いにより書き与えられたものである。』
                        出典:【折口信夫の歌碑の駒札】より
郡上八幡北町大火とは、承応元年(1652)と大正8年(1919)7月16日の大火で全焼したことをいう。
この歌碑は、昭和58年の大火記念日の7月16日に建立されている。

野口雨情歌碑
02野口雨情歌碑mid
郡上八幡樂藝館に建つのが、野口雨情の歌碑。
説明文には、
『昭和6(1931)年、故野田留吉氏はじめ八幡町の文人たちに、招聘され来幡された野口雨情は、郡上踊りの歌詞や詩作を数多く作り遺されました。その中に、
「今夜逢ひませう 宮ケ橋で 月の出るころ のほるころ」
宮ケ瀬橋からみる東殿山から出る月の美しさを舞台に、郡上踊りの始まりへの高鳴る期待を表現した秀色の歌詞です。
この地は、江戸時代藩主金森頼錦が選択した慈恩寺「鐘山十境」には、中秋の名月がかかる東殿山の情景は吐月峰と称されました。
また岸劔神社があり、橋を含む神社境内は、郡上踊りの路地踊り発祥の名勝地です。
野口雨情は、明治15(1882)年、茨城県北茨城市磯原町の生れの詩人・童謡・民謡作詞家であり、北原白秋や西條八十とともに童謡会の三大詩人と称されます。
明治38(1905)年、民謡詩集「枯草」において詩作を始められ、一時中断後、大正8(1919)年に詩集「都会と田園」で詩壇に再復帰し次々と童謡を発表され、藤井清水・中山晋平・本居長世とともに多くの名作を遺しました。
また創作民謡にも力をそそぎ、二本民謡協議会を再興、日本各地を旅行してその地の民謡を創作し、さらに仏教音楽の研究に加え、新仏教音楽の創作や普及に力を尽くされました。
そして昭和20(1945)年、宇都宮市近郊で死去。
代表作には「十五夜お月さん」「七つの子」「赤い靴」「青い眼の人形」「シャボン玉」「こがね虫」「あの町この町」「雨降りお月さん」「しょうじょうじの狸囃子」などや、その他「波浮の港」「船頭小唄」など多くの名作を遺されています。』
                         出典:【野口雨情歌碑の説明】より