江戸時代に造られた街並みが残る城下町の郡上八幡、町中の水路や寺社、建物は間口が狭く奥に長く、京都の雰囲気を醸すところから「奥美濃の小京都」と呼ばれ、柳町、職人町、鍛冶屋町などその面影をよく残している。
枳穀番所と大手町
八幡城の大手門から西にy本町とかじや町の間にあったのが「枳穀番所」である。
駒札によれば、
『この古絵図は、八幡城主六代遠藤備前守、平常友治世のとき、正保3年(1646)~延宝4年(1676)画かれたものの部分である。
常友はすぐれた名君で、永禄2年(1559)遠藤盛数が八幡山に築城以来の、八幡城修築を図ると共に、城下町の整備に努力した。
最勝寺・願蓮寺・大乗寺などを現在地へ移転させ、尾崎には洞泉寺を、五町に揚柳寺を開き、柳町と桜町の間の若山、肴町の岩山を切って道とし、宮ケ瀬橋を架けたのも常友である。
現在の地点は、八幡城大手門を真正面に、西側の小駄良川を越せば、越前街道に通ずる重要な場所であるため、小駄良川へかかる所には「桝形」と「番所」が設けられている。
この番所の周囲には、「からたち」が植えられていたところから、「枳穀番所」と呼ばれていた。
また珍しいのは、この番所からは図にあるように二本の橋がかけられていたという。
これは大手の守りのため、一つが「撥橋(はねばし)」に構築されていたので、もう一本土橋が架けられていたと伝えられている。
なお、一般には大手町のことを、「よこ町」と呼んでいた。』
出典:【枳穀番所と大手町の駒札】より
郡上八幡博覧館
八幡町殿町の北にあり、長良川鉄道「郡上八幡」の駅から、北東に歩いて15分の所にある。
大正9年(1920)に、郡上税務署庁舎として建てられたもので、のちに農政局統計事務所として使用され、平成3年(1991)に、近代建築再生の第1号として外観は当時のままで郡上八幡博覧館として開館される。
博物館として、歴史・水・技・郡上踊りなど郡上八幡の魅力を紹介している。
郡上八幡旧庁舎記念館
郡上八幡の中心、吉田川に架かる新橋の左岸にあり、建物前の広場は郡上踊りのときは中心的な場所となる。
明治15年(1882)に製糸会社の開祥社(かいしょうしゃ)が開業するが、大正11年(1922)に、八幡町役場が建てられ、昭和11年(1936)に洋風建築の八幡町役場の新庁舎が新築した。
1階が八幡町の政執務関係、階が八幡町の議会関係として使われた。
平成6年(1994))まで八幡町役場として使用された。
八幡町はこの建物の保存活用を決め、平成11年(1999)に、郡上八幡旧庁舎記念館の名で観光案内所として開館した。
元、製糸会社・開祥社(かいしょうしゃ)跡に建てられた郡上八幡旧庁舎は、
『郡上は古くから養蚕が盛んで、明治時代八幡町に製糸工場が十二社あった。
また京都の呉服関係の記録に「郡上の青絹」とあり「僧の衣に用いたらしい」との連絡も入っている。
明治15年(1882)この場所に開業された製糸会社「開祥社」は、吉田川の水を利用し、大きな水車によって動力を得ていたことで有名であった。
大正8年、八幡北町の大火にかかわる町内の大整備により、大正11年(1922)八幡町の役場が開祥社跡地に建てられた。
次に昭和11年(1936)敷地を再整備して、木造二階建ての洋風建築が新築されたのであった。
屋根は当時の最新技術であったトラス工法が用いられており、平成6年(1994)まで八幡町役場の本庁として、まさに八幡町の拠点であった。
平成10年(1998)9月、この建物は「国の登録文化財」に指定された。
建築当時、この建物は地元の職人の協力で建て上げたのであったが、その技術の確かさを、審査員は高く評価されていた。』
出典:【郡上八幡旧庁舎記念館の歴史】より
郡上八幡樂藝館
郡上八幡旧庁舎記念館の近くにあり、本館、看護婦棟、レントゲン棟、入院棟からなる建物で、地域の学術文化、伝承に関する資料の保管及び展示や地域住民の文化に関する創作活動の施設である。
本館は、明治37年(1904)建設の、木造2階建瓦葺の擬洋風建築で、建築面積116㎡で、玄関ポ-チはイオニア式の円柱、建物の隅、腰壁は石造風のモルタル仕上げとなっている。
看護婦棟は、木造2階建鉄板葺で、建築面積41㎡の江戸時代末期の足軽長屋を移転改築したものである。
レントゲン棟は、大正期建設の木造2階建鉄板葺の洋風建築で、建築面積22㎡で、岐阜県でレントゲンが最も早く設置された。
郡上八幡樂藝館(旧林療院)の由来には、
『郡上八幡における西洋医療の歴史は、幕末の安政5年(1858)に全国的にコレラが流行し、郡上でも赤痢や腸チフスなどの伝染病が蔓延したため、その必要性が高まったあたりに始まる。
これ以降、藩校に医学校が設立され、優秀な人材を藩費で江戸の医学校へ派遣するなど力が注がれた。
当時、まだ医療制度が確立していない中で、郡上郡内には藩医や町医以外にも、各村で民衆に応える村医が幅広く存在していた。
明治に至り、これらの医療従事者がそのまま立法化された医療行政に位置づけられたことで、郡内では迅速な医療制度の構築がなされた。
その証拠に、明治19年(1886)「岐阜県医師人名簿」の中の「従来医師として開業の証を授与せしき者」には、郡上郡内で百数名の登録があり、県内の他地区と比べ非常に密度が濃く、充実した環境であったことがうかがえる。
医師林吉蔵氏によって明治37年(1904)に本館が建てられ、「林病院」として開業した旧林療院は、こうした歴史的背景の中で生れた医療施設の一つである。
敷地内には本館東側に看護婦棟(移築された江戸末期の長屋)、南側にレントゲン棟(大正期)、入院棟などが配置されている。
明治から平成の長きにわたり医療施設として歩んできたこの建物は、平成9年に林家より八幡町(現郡上市)に寄付され、同10年9月に旧林療院本館、10月には同看護婦棟、同レントゲン棟が国の登録有形文化財(建造物)となった。
歴史的建造物の保存と活用、地域の歴史や文化の継承、文化創出の活動拠点となることを目的として改修し、平成12年、郡上八幡樂藝館として開館した。』
出典:【郡上八幡樂藝館(旧林療院)の由来】より
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