郡上八幡には、山水、井水、河川や谷川の水、湧水など、豊富な水源があり、町の中を水路がめぐり水の町としても知られている。
宗祇水
小駄良川河畔の宮ケ瀬橋近くにある泉が、地表近くの湧水を引いて水舟に溜めて利用している「宗祇水」である。
8月20日に行われる宗祇水神祭が行われ、神事が終わると湧水を使って野点が開かれると共に、本町通りで郡上踊が始まることとなる。
由来によれば、
『室町後期の文明年間(1469~87)郡上八幡を治めていたのは、東常縁(つねより)でした。
常縁は藤原定家・俊成に始まる二条家歌道の流れを正当に継ぐすぐれた歌人で、古今伝授(和歌の解釈や真髄、作歌の秘奥を伝授)する資格を持っていました。
その名声を慕って、「新撰莬玖波集(しんせんつくはしゅう)」を編んだ連歌の飯尾宗祇がはるばると訪ね来たって、ついに古今伝授を受けました。
二人は文明3年(1471)桜の木の下に、こんこんと湧き出るこの清泉のほとりで、別れを惜しんだと言います。
東常縁は次の一首を宗祇に託しました。
「もみじばの 流るゝ龍田 白雲の 花のみよしの 思い忘るな」
密かに作歌の極意を読み込んだ歌だと言われています。
こうした故事から寛文年中(1661~73)時の領主・遠藤常友はこの湧水を「白雲水」と名づけました。
貞享元年(1684)、松尾芭蕉が編んだ俳諧七部集の内、「冬の日」「木枯の巻」には、次の句があります。
「ぬす人の 記念の松は 吹きをれて」 芭蕉
「しばし宗祇の名を付けし水」 杜国
「笠ぬぎて 無理にもぬるゝ 北時雨」 荷兮(かけい)
このことから、その当時「宗祇水」の名もかなり全国に知れわたっていたようです。
この辺りには宗祇岩、宗祇桜、宗祇屋敷など宗祇にちなむものもたくさんありました。
その後、寛保2年(1742)、城主・金森頼錦(よりかね)は幕府の儒学者・林大学頭信充に碑文を得て「白雲水」の碑を建立しました。
次の五言絶句が碑に刻まれています。
「千載白雲水 長流自冽清 歌成如有意 即是古今名」
さらに頼錦は京都の公家・烏丸光栄に依頼して白雲水に関した歌を集め、「白雲集」を編み、当町慈恩寺に納めました。
また文化11年に東町、この近くに仮寓した漢詩人・頼山陽は「以白雲水書之」として詩、数編を残しております。
昭和47年(1972)、49年にはそれぞれ町、県史跡文化財に、60年(1986)には、環境庁の第一回名水百選に指定された。』
出典:【宗祇水の由来】より
犬啼水神
郡上八幡旧庁舎記念館の前の広場に二体の水神があるが、これは犬啼谷から出土したもので「犬啼(いんなき)水神」と呼ばれている。
由来によれば、
『万延2年(1861)の夏、焼けつくような日照が続き、吉田川の清流のよどみに涼を求めて集まってくる人びとが多くあった。
この猛暑により病に倒れる者が続出し、悪疫の流行を憂慮していたやさき、時の城主(青山幸哉)の奥方も病床に臥し、熱病のあまり篤くなり殿の心痛は濃くなるばかりであった。
時に寺畑村(今の東町)の郷士・古田栄左衛門が、秘かに貯えていた天然氷を献上した。
効果てきめん快方に向い、殿の欣びはひとしおであった。
やがて一般町民にも与えられ、この天然氷によって救われた者数多くあったと伝えられている。
これに着目した漢方の心得ある栄左衛門は、犬啼谷の水源の湧水が良質の天然氷に適していると考え、氷田を作り貯蔵庫を設けて氷を保存し、病人に与えるようになりました。
殿はこの善行を褒めたたえ、銀五メを賜った。
この氷田工事の際、土中から一対の石像(男女像)を発見し、水神として祀っていた。
明治27年この地方を襲った豪雨で山崩れになり水神像もろとも流出し、ついに発見することができなかった。
昭和37年に良質で水量豊かなこの湧水を水源として上水道が完成。
現在は3,900世帯の生活用水として活用され、ミネラルウォーターとして広く愛飲されている。
この上水道工事中に水神像が発見され、その一対のため犬啼水神堂宇を建立したものである。』
出典:【犬啼水神の由来】より
吉田川
吉田川は高山市との間にある烏帽子岳付近を源とし、郡上八幡の中心を東西に流れる川で、郡上八幡有坂で南北に流れる長良川に合流する、長良川最大の支流である。
吉田川の名は、小洞山に城を築いた吉田太丸左衛門の名に由来するという。
小洞山に築いた城は吉田城といわれ、由来によると、
『享禄の頃(1528~1531)、京都から下り豪族となった吉田太丸左衛門正邑が、16世紀ごろに吉田の八幡神社西方、600mほど先の小洞山頂上部(標高430m)に吉田城を築いた。
その跡地を「千畳敷」と呼ばれていておよそ5ヘクタールの広大な平地と、南に張り出した尾根の削平部分が城域と考えられ、多少の起伏はあるが、漠然とした平場で生前とした遺構も少なく、城域の策定も縄張りの推論もしにくい城址である。
尾根の西側には小洞沢、東側に井谷があり、城域の周囲は急傾斜で要害をなしている。』
出典:【吉田城跡の由来】より
吉田川は郡上八幡の生活にかかせない川として、長い間、町の人々たちと深い関係を持つ川であった。
気良川、寒水川、犬啼谷、赤谷川、乙姫川、小駄良川など多くの支流があり、
宗祇水近くにある宮ケ瀬橋からは、アユやアマゴなどが見え、新橋では子供たちが橋の上から川面に飛び込む姿が、夏の風物詩として知られている。
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