郡上八幡の道端で行き当たった、道祖神などを見てみよう・・・
白龍稲荷神社
肴町の宗祇水近くの通りに面した所に、高さ10mほどの大きな岩があり、その頂きにあるのが「白龍稲荷神社」である。
雪の降った後の階段は滑りやすいので、上には登らなかったのだが、木造銅板葺の小さな稲荷神社があるようだ。
童地蔵
桜町の吉田川の南側にあり、謂われなどはなかったが、そこには
『わらんべ ひとり ほほ笑みて 石の頬をもて 立ちにけり むかしのひとの なに念じ 何をいのりて 彫られしか
城山のもと みちほそく わらんべ ひそと 祀られぬ 四季の陽ざしの 触れすぐる 時のながれの 寂(しず)けさに』
とあった。
神農薬師
吉田川に架かる新橋を北に渡ると、岩窟に祀られた小さなお堂がある。
由来によれば、
『当町、市島林組の富豪治左ェ門方に立ち寄った一巡礼が、厚いもてなしを受けたお礼に薬師如来を置いて立ち去った。
天明元年(1781)その薬師如来を同地の竹林内に安置奉安した。
その後、325名の神農講会員により、昭和4年1月8日薬師如来をもらいうけ、同年7月28日の馬市おを利用し、当巌窟に奉還して、入佛式を奉行した。
尚、神農薬師は、商売繁盛の外、諸病、諸難一切を払い給うと言い伝えられ、多くの人々より信仰されている。
毎年7月第三土曜日を祭礼日と定め、町内の住民により盛大な祭礼が行われている。』
出典:【神農薬師由来】より
小坂歩岐馬頭観音
神農薬師から右に、坂を40mほど下ったところにあるのが小坂歩岐馬頭観音である。
由来によれば、
『徳川時代の末期より、この付近は小坂歩岐と云われ車馬交通の難所とされていた。
人馬共に犠牲者が相次いだため、当時の荷馬車関係者が安全を祈願して、当歩岐付近に何体かの観音様をまつってお互いの安全を祈ってきた。
その後、世の移り変わりと共に道路が整備されてきたのを機会に、昭和30年頃有志によりこれらの観音様を合祀して今日に至っている。
現在、交通安全、家内繁盛の守護神として各層の信仰が厚く、特に毎年7月の縁日には、町内こぞって盛大にその供養と祈願祭が営まれている。』
出典:【小坂歩岐馬頭観音の由来】より
左京稲荷神社
長良川鉄道の郡上八幡の駅から歩いて15分ほど、乙姫川沿いに建つ稲荷神社である。
由来によれば、
『このあたりは旗本三千石・金森左京の屋敷跡ですので、左京町と言われております。
金森左京は、元郡上藩主・金森頼錦の分家です。
本家が宝暦の百姓一揆で断絶した時、一族でただ一人特に存続を許され、明治維新で栄ました。
この稲荷神社は、好運児・金森左京の守護神でありました。
こんにちも一族繁栄を願う多くの人々から崇敬されております。
出典:【左京稲荷神社の由来】より
また三不思議なるものがあり、それは
『一、石の鳥居には奉建札があって
「石工信州高遠の住人棟梁守屋桂助正武同粂次郎文政十三年寅十一月二十八日建立」(1830)と書かれています。
今の長野県高遠町の石工さんが、どの様な縁で誰からの注文で、どこで造って、左京稲荷に建てたのでしょう。
一、天保二年五月(1831)正三位源重成謹書の「正一位稲荷大明神」の額があります。
正三位は、日本の位階では雲の上の人です。
この様に高貴な人の額がどうして左京稲荷に掲げられたのでしょうか。
一、石燈籠、石鳥居、石手水鉢は1828年から1852年の間に造られています。
この頃は幕藩体制が衰退を辿り、武家も庶民も生活がくるしかったので、これらの石造物を寄進することが大仕事であったと思われます。
またどこのどの様な人が家運隆昌と子孫繁栄を願って、この左京稲荷に寄進をしたのでしょう。
この疑問に御見解がいただければ嬉しく思います。』
出典:【左京稲荷の三不思議】より
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