そして、
『郡上八幡おんな町』(令和3年(2021)発売)
作詞:彩 ちかこ、作曲:四方 章人、歌:永井 裕子
郡上八幡は「奥美濃の小京都」と云われるとともに、城下町の佇まいを残し、古い寺社と水の町である。
ここでは、古い寺社を巡ってみようと思う・・・
大乗寺
大乗寺は郡上八幡を流れる小駄良川沿いにあり、慶長8年(1608)日了(にちりょう)上人により創建された日蓮宗の寺院である。
日了上人は、元は越前朝倉家の一族で清水三右衛門尉という武士だったが、天正元年(1573)織田信長により朝倉家が滅亡すると出家して、京の妙覚寺に入り日了との名を授かり、慶長8年(1608)に小駄良中桐村(現・岐阜県郡上市八幡町)に一宇を設け、跡を継いだ日能上人が妙覚寺から本尊を勧請し、大乗寺を開山する。
宝暦8年(1758)に青山幸道が郡上藩に入封すると、菩提寺の一つとして帰依したことから、青山家ゆかりの品が伝わっている。
大火により諸堂が消失するが、享和4年(1808)に再建され、鬼子母神堂・鐘楼門は当時の姿を今に伝えている。
駒札によれば、
『創立は慶長8年(1608)である。
越前の戦国大名朝倉氏有縁の清水三右衛門尉が、朝倉氏滅亡後、京都妙覚寺において仏門に入り日了と改め、諸国行脚後、小駄良中桐村に芳舎を構えた。
その事績を継いだのは、妙覚寺日奥上人(不受不施の祖)の弟子日能上人である。
妙覚寺より本尊を賜り、大乗寺を開山した。
八幡城主遠藤慶隆は、信長に従って姉川の戦い(朝倉氏と戦った)や、比叡山焼打ち(法華経の寺を焼いた)に参戦した由縁から仏心厚く、寺領と諸堂を寄進した。
この地は古来清水の里と呼ばれていたのにちなみ、清水山と号した。
城下町の発展とともに、寺域も整備され、町衆の寺としてまた領内総鎮護・祈願の寺として郡内一円の崇敬を集めてきた。
享和4年(1808)諸堂を再建した。
鬼子母神・鐘楼門(町文化財指定)はその時のもので、町内有数の貴重な建造物である。
また明治5年(1872)には、総梼(ゆす)造の本堂を建立し、豪壮質実な寺風を呈している。
境内に諸願成就祈﨔本尊の鬼子母神(8月1日、2月3日祭日)青山公ゆかりの鳥瑟沙摩明王、泰澄勧請伝承を持つ火防稲成明神・水子慈母観音がまつられている。
また青山家・家中各家の菩提寺として青山公ゆかりの寺宝等が所蔵されている。』
出典:【清水山大乗寺の駒札】より
長敬寺
大乗寺から小駄良川を挟んだ向かいに長敬寺(ちょうきょうじ)がある。
長敬寺は慶長8年(1601)、八幡城主・遠藤慶隆が古今伝授(古今和歌集の解釈を秘伝として伝える)の祖といわれる東常縁(とう つねより)の玄孫・正勧坊正欽が、飛騨高山の照蓮寺にいるのを聞き、これを招いて自らの菩提寺と創建をしたものである。
長敬寺はまた幕末に新政府軍と戦った凌霜隊(りょうそうたい)のゆかりの寺としても知られている。
長敬寺と凌霜隊には、
『八幡城第二代と第四代の城主であった遠藤慶隆が、古今伝授で有名な「東氏(とうし)」の子孫が飛騨高山の照蓮寺に仮住まいしていることを知り、慶長6年(1601)に招いて建立したのが長敬寺である。
本堂裏に遠藤慶隆のものと伝えられている墓が残っている。
また古絵図によると寺の裏近くに矢場が記されている。
慶応4年(1868)4月、江戸城開城の折、郡上藩士45名が「凌霜隊(りょうそうたい)」を編成、佐幕派の中心会津へ救援隊として出発し、会津若松城の「白虎隊」と共に政府軍と戦った。
9月、会津の降伏により凌霜隊士は郡上へ護送され、獄舎に入れられた。
きびしい獄舎の生活に犠牲者の出るのをみた城下寺院の歎願が聞き入れられ、明治2年当長敬寺に移された。
明治3年釈放されたものの、彼等の一生は苦しいものであった。
隊員の一人、矢野原与七の手記「心苦雑記」があり活字化されている。』
出典:【長敬寺と凌霜隊】より
安養寺
安養寺(あんにょうじ)は八幡城三の丸跡地にあり、郡上一帯における真宗大谷派の中心的な寺院である。
安養寺は、康元元年(1256)宇治川の合戦で有名な佐々木高綱の三男高重が出家して親鸞聖人の弟子となり西信と名乗り、近江国蒲生郡に一宇を建て「安要寺」を創建する。
その後、六世仲淳が美濃国安八郡に移り、蓮如上人より「安養寺」の寺号を受けた。
その後、越前国穴馬(現・福井県大野市)、美濃国大島村野里(現・郡上市白鳥町)、中坪村園野(現・郡上市八幡町)と移り、明治時代に本堂消失を期に、明治14年(1881)八幡城三の丸跡地(現在地)に移転し、明治23年(1890)本堂を再建する。
その後、大正8年(1919)の大火で消失するが、昭和11年(1936)再建されて現在に至っている。
七百年を越える長い年月を、二十数代の住職が法灯を守り続け、寛文6年(1666)に院家、天保8年(1837)に御坊分となり、本願寺八世蓮如上人真筆の裏書のある絹本着色阿弥陀如来像、本願寺勢力と織田信長が戦った石山合戦の古文書等、の所蔵品を数多く所有している。
再建された本堂は、間口、奥行きともに16間(約29m)という壮大なもので、木造の建造物としては岐阜県下で最大のものである。
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