そして、
『ひとり長良川』(平成24年(2012)発売)
作詞:伊藤 薫、作曲:弦 哲也、歌:水森 かおり
失恋した女性が心を癒しに、郡上八幡、柳ケ瀬、高山をひとり旅する・・・
郡上八幡には地域の役員をしていた頃に、食品サンプル作りのバスツアーで行ったことがある。
01吉田川mid
平成16年(2004)に、郡上郡の7町村(八幡町、大和町、白鳥町、高鷲町、美並町、明宝村、和良町)が合併し郡上市となるが、郡上八幡はそのうちの一つ八幡町地区のことをいい、城下町としての景観を残し「奥美濃の小京都」と呼ばれていて、飛騨高地の南に位置し、長良川と吉田川の合流地点が郡上鳩万の市街地となっている。
また郡上おどりでも有名で、7月中旬から9月中旬まで続けて踊られる。
寛水年間に、時の城主遠藤氏が領民の和をはかることを目的で始められたといわれ、旧盆のときには、町民や観光客も一緒になり夜を明かして踊り明かすのである。

郡上八幡城
02八幡城mid
郡上八幡城は、戦国時代末期の永禄2年(1559)に、東常慶と遠藤盛数が戦ったときに、遠藤の陣があったのがその始まりで、盛数の子・慶隆がそこに城を築くのである。
天正16年(1588)に、斎藤道三や織田信長に仕えた稲葉一鉄の子・稲葉貞道が領主となり、八幡城を改修し石垣や天守台を設け、本格的な山城とする。
慶長5年(1600)に、関ヶ原の戦いの前哨戦となる遠藤慶隆と稲葉貞通との間で戦いが起り、徳川家康が勝利し慶隆が八幡城主となる。
しかし、元禄5年(1692)5代藩主・遠藤常久が7才で急死し、跡継ぎもなく常陸笠間藩から井上正任(まさとう)が5万石で高山城に入るが、元禄10年(1697)に丹波亀山藩に移封される。
その後に出羽上山藩から金森頼旹(よりとき)が入るも、2代藩主・金森頼錦(よりかね)の代の宝暦8年(1758)に、農民による「郡上一揆」により改易となる。
その後に、丹後宮津藩から青山幸道(よしみち)が4万8千石で八幡城に入り、第6代藩主・青山幸宣(ゆきよし)まで110年間、飛騨の国を統治し、明治維新を向えることになる。
明治4年(1871)廃藩置県により郡上藩は廃藩となり、郡上藩4万8千石は終りを向えるのである。
八幡城は石垣だけを残して取り壊され、現在の城は昭和8年(1933)に再建されたもので、天守としては珍しい木造建築であり、現存する木造建築の城としては最も古いものである。
余談だが、遠藤盛数の娘が、戦国時代から江戸時代にかけ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将、山内一豊の正室、千代である。
一豊は、土佐藩24万石の初代藩主となるが、それには信長の「馬ぞろえ」や関ヶ原前夜の「傘の緒の密書」など、千代の内助の功があったからだと云われている。