そして、
『飛騨の高山』(平成12年(2006)発売)
作詞:木下 龍太郎、作曲:弦 哲也、歌:水森 かおり
飛騨地方は日本のほぼ中央に位置し、縄文時代から人の市波が続き、東西文化融合の地として発展をとげてきた。
高山からは東に乗鞍岳、穂高岳、槍ケ岳、笹ケ岳が、西に白山、南に御岳山と四方を山に囲まれ、気候は内陸性で寒暖の差が大きく、冬は大変寒く夏でも夜は気温が下ることがある。
高山の礎を築いたのは、天正13年(1585)豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨に入り、天正16年(1588)から、関ケ原の戦い前の慶長5年(1600)までをかけ高山城を築城する。
城を取り囲む高台に武家屋敷を、宮川を京都の鴨川に見立てて三町を碁盤目の町造りとし、町人を住まわせた。飛騨の小京都と云われる所以である。
関ケ原の戦いでは徳川方に付き、所領安堵とともに美濃の国を加増されている。
高山は金森氏が6代107年間にわたり治めたが、元禄5年(1692)に出羽国に移封となり、以降、高山は幕府直轄地となり、明治維新まで177年間続くのである。
現在、高山市の面積は2,177.61平方キロメートルで、日本一大きな市となっている。
飛騨の小京都といわれる高山の町を歩いてみよう。
飛騨国分寺(高山駅から徒歩5分)
聖武天皇が諸国に命じて建てさせた国分寺のひとつで、天正18年(746)に建てられた。
創建当時は七堂伽藍が整い、七重塔がそびえていたが、相次ぐ兵火で消失し、現在の本堂は室町時代に再建されたものである。
文政4年(1821)に再建された高さ21mの三重塔や高山城から移された鐘楼門(山門)、室町時代に建築された単層入母屋造りの本堂などがあり、本堂には平安時代に造られた、木造薬師如来坐像や木造観世音菩薩立像が安置され、平家の宝物という小烏丸の太刀がある。
日下部民芸館(高山駅から徒歩17分)
国分寺通を東、鍛冶橋を渡って下三之町の通りへ折れ、八賀民族美術館の前を通り北に歩くと、江名子川の川べりに白壁の塀をめぐらした建物が見える。
布引橋を渡ると、出格子が美しい日下部民芸館(日下部家)の玄関がある。
日下部家は御用商人として栄え、建物は明治8年(1875)の大火で焼け、明治12年(1879)の再建だが、飛騨の匠が粋を凝らしたもので典型的な高山の民家として重要文化財に指定されている。
中へ入ると、店と住まいにわけられ、太柱と天井のない梁と束柱は骨格のような空間美を描き出している。
吉島家住宅
日下部家の隣にあり、明治41年(1908)の建築で、軒下に杉の葉を重ねて球状にした「酒(さか)ばやし」が吊るされていて、造り酒屋だったことがわかる。
パンフによれば、
『天明8年(1784)初代重兵衛が荒城郷より高山にでてきた時より、吉島家は始まる。
代々酒造を稼業とし、ために酒神を祭る三輪神社の杉玉を軒先に下げている。
また入口にかかる「引兩(ひきりょう)紋のついた暖簾は、幕府に多額の運用金を献じたことによって賜ったもので、これは吉島家が身もとよろしき豪商であったことを示している。
現在、国の重要文化財として指定されているこの住宅は、明治38年の火災後に再建されたもので、その棟梁は名工をうたわれた西田伊三郎である。
飛騨の匠以来つちかわれてきた優れた技が、ここには凝縮され光を放っている。
この民家の最大の見どころは、なんといっても土間の吹き抜け部分にある。
大黒柱を中心として梁と東によって構成された立体格子が、高窓から投げかける光の移り変わりとともに、その陰影と色合いとを転変させていく演出は、見事というほかはない。
そして深みのある明るさをたたえて輝く木の肌は、ここを訪れる人たちの驚きであるが、これは代々の人々がその手で磨きあげ創りあげてきたものなのである。
民家の美は、まさに竣工して以来人々が日々の生活を通して創りあげるものである事を、これは示している。』
出典:【重要文化財 来島家住宅】より
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