そして、
『木曽節』(長野県民謡)
『木曽路の女』(昭和60年(1985)発売)
作詞:やしろ よう、作曲:伊藤 雪彦、歌:原田 悠里
「明日は馬籠か 妻籠の宿か/行方あてない 女がひとり・・・」
『木曾ぶし三度笠』(昭和35年(1960))
作詞:佐伯 孝夫、作曲:吉田 正、歌:橋 幸夫
「やくざ渡世の 白無垢鉄火/ほんにしがねえ 渡り鳥/木曾の生れヨ 仲乗り新三・・・」

01地図mid
木曽路には随分昔に、妻籠から馬籠までを歩いたことがある。
名古屋まで行くのに、東海道新幹線と較べるとだいぶん安かったので、難波だったか上本町だったか、近畿日本鉄道(近鉄)の特急に乗った。
名古屋から国鉄の中央本線で南木曾まで行き、そこから歩き始めたのか、またバスで妻籠まで乗り、妻籠から歩き始めたのか、今となっては定かではない。
南木曾から妻籠まで歩くと40分ほど掛かるので、当時は今よりもバスの本数は多かっただろうと思うので、妻籠までバスに乗ったようにも思う。
妻籠から馬籠までは馬籠峠越えの9Kmの道のりで、3時間ほどの歩きである。
馬籠からは中津川までバスに乗り、名古屋からは近鉄で大阪(難波)まで、日帰りの一日であった。

02木曽福島mid
中山道は、江戸時代の五街道の一つで、江戸日本橋から京都三条大橋までの北廻りの内陸を経由する街道で、板橋宿、蕨(わらび)宿、高崎宿、軽井沢宿、下諏訪宿、木曽路、関ケ原を経て草津まで、67の宿場がある。
木曽路はそのうちの、上四宿(贄川(にえがわ)・奈良井・藪原・宮ノ越)、中三宿(福島・上松(あげまつ)・須原)と下四宿(野尻・三留野・妻籠・馬籠)の十一宿があった。
島崎藤村は「夜明け前」に、
『木曽路はすべて山の中である。
あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。
一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じっきょくとうげ)まで、木曾十一宿(しゅく)はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い渓谷(けいこく)の間に散在していた。』
と書いている。

03妻籠mid
妻籠宿は、中山道42番目の宿場で、蘭(あららぎ)川の東岸にある。
中山道と飯田街道の追分(分かれ道)にあって、交通の要衝であり、天保14年(1843)の記録によれば、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒で人口は418人であったという。
重要伝統的建造物群・南木曾町妻籠宿保存地区によれば、
選定年月日
昭和51年9月4日
選定理由
妻籠宿は、宿場の建造物を中心に、旧中山道に沿った在郷および周囲の自然環境が一体となって、歴史的風致を形成しており、江戸時代の宿場の姿をよく伝えている。
説明
妻籠宿は室町時代末期には、すでに宿場として成立していたと考えられ、慶長7年(1602)幕府が中山道に六十七宿を定めたとき妻籠もその一つとなった。
保存地区は東西約3.8Km、南北約5.5Km、面積約1,245.4haで、地区内に233棟の伝統的建造物があり、地域的に宿場、寺下、在郷の三地区に分けられる。
宿場は上、中、下町を中心とし、本陣、脇本陣、問屋が置かれた。
建物は出梁により二階を張り出した切妻造、平入が特徴で、江戸時代末期から明治にかけて再建されたものが多く、大規模な建物も多い。
寺下は光徳寺の門前町の形態となし、一般に間口が狭く建物は小規模である。
在郷には、旧中山道に面した町屋風の建物と付近に点在する農家がある。
妻籠宿では、昭和43年から町並み保存事業が行われ、五十三棟の復元を完了し、今後長期にわたり整備を行う予定である。
宿場保存の中心は住民の総意で宣言した「妻籠宿を守る住民憲章」といえよう。
出典:【重要伝統的建造物群・南木曾町妻籠宿保存地区】より

04馬籠mid
馬籠宿は、中山道43番目の宿場で、木曽11宿の一番南に位置する。
天保14年(1843)の記録によれば、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒で人口は717人であったという。
馬籠は、木曽義仲の妹・菊姫が源頼朝から領地を安堵され、義仲の菩提を弔った所でもあり、島崎藤村の故郷でもあった。
馬籠は長野県だと思っていたら、なんと平成27年(2005)に合併によって、長野県から岐阜県中津川市となっていた。
馬籠の説明板によれば、
馬籠の宿場
中山道六九宿のうち、木曽路には十一の宿場が置かれていた。
馬籠は板橋を一番目とすると四三番目の宿場になり、江戸からの距離は八三里六町余りとなっていた。
街道が山の尾根に沿った急斜面を通っているので、その両側に石を積んで屋敷を造る「坂のある宿場」が特徴となっている。
宿場の中央には高貴な人の宿泊に備えた「本陣」や「脇本陣」、荷物運搬の差配をする「問屋」が置かれ、旅人の利用する「旅籠」が一八軒、このほか「飯屋」や「馬宿」があって、行き交う旅人で賑わった。
明治25年(1892)に、木曽川沿いに国道が開設され、さらに明治45年(1912)には、国鉄中央線が全線開通することにより、宿場としての使命を終えた。
明治28年(1895)と大正4年(1915)の二度の大火で、江戸時代の遺構の殆どを焼失した。
桝形
馬籠宿の街道の南端は直角に二度折り曲げてあり、この部分の山手側は切り土になっている。
これは城郭建築の桝形をを模したもので、ここを「桝形」といった。
本来、宿場が軍事的な目的をもって造られたことを示している。
明治38年(1905)の道路改修により当時の原形を消失したが、その後、昭和60年代になって復元された。

ちなみに「新聞からご当地ソングが聴こえてくる」の長野のご当地そんぐは、
『信濃の国』(明治33年(1900)長野県民歌)
作詞:浅井 冽(きよし)、作曲:北村 季晴(すえはる) である。