そして、
『小諸馬子唄』(長野県民謡)
『千曲川旅情のうた』(大正14年(1925)発売)
作詞:島崎 藤村、作曲:弘田 龍太郎
01地図mid
スキー以外でも長野にはたびたび行っている。
この時は、東京から仙台に行き、仙山線で「仙台」から「天童」で乗り換えて、「新庄」経由の陸羽西線で日本海側の「余目」に向かう。
「余目」からは夜行列車で「新津」から信越本線に入り、「直江津」から「妙高高原」を通り「長野」へと行っている。
今は「直江津」から「妙高高原」までを「えちごトキめき鉄道」が、「妙高高原」から「長野」までを「しなの鉄道」が、信越本線の肩代わりをしている。
長野で小諸に向かう為の乗り換えに時間があったので、駅前で信州そばを食べたという記憶がよみがえった。
「長野」から「小諸」まで信越本線出向う。
今は「篠ノ井」から「軽井沢」までを「しなの鉄道」が走っている。

02小諸mid
余目を夜汽車で発ってから長野に着いたのが昼頃だったので、小諸には昼をだいぶ過ぎていたように思う。
小諸では島崎藤村ゆかりの宿「中棚鉱泉」に予約を入れており、3日目は小諸泊まりである。
「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ 緑なすはこべは萌えず 若草も籍(し)くによしなし・・・」と島崎藤村の「落梅集」にある詩で有名な小諸市は、長野県東部の浅間山の南西斜面にあり、南には千曲川が流れている。
元禄15年(1702)に牧野康重が移封されてから明治維新まで小諸藩を治めている。
北国街道・中山道・甲州街道の分岐にも近く交通の要衝であり、信越本線が通っていた頃は特急列車全便が停車していたのだが、北陸本線は軽井沢から佐久市の佐久平経由で上田となり、小諸は通っていない。
南に蓼科山(2,531m)、北に浅間山(2,542m)が見え、晴れた日には遠く富士山が望めるといい、千曲川は南から西へと、流れを北から西へと大きく変えながら流れている。

03浅間山mid-10
浅間山は、長野と群馬にまたがる、標高2,568mの三重式の活火山である。
一ばん古い火口壁が、第一外輪山の黒斑山(くろふやま:2,404m)、牙山(ぎっばやま:2,111m)、剣ヶ峰(2,280m)、二次の火口壁が第二外輪山の前掛山(2,521m)、東前掛山(2,524m)で、現在はその中に中央火口丘ができ、俗にお釜と呼ばれ、周囲1.3km、長径450m、深さ150mの大きさである。
火口壁の裂け目からは白煙を噴き出しており、活火山であることを示している。
昔から何度となく噴火を繰り返してきたが、なかでも天明3年(1783)の噴火は有名で、噴火での灰は関東一帯や東北地方にまで達し、溶岩が北方に流れ、吾妻川(あがつまがわ)をせき止め、それが崩れて利根川に流れ、沿岸の村々に大きな被害を与えた。
今も残る「鬼押出(おにおしだし)」が溶岩の流れた跡である。
山頂からの眺望はすばらしく、北東には遠くに日光・上州の山々、近くに赤城・榛名の山を、北に草津白根から四阿山に続く山々、西に妙高・戸隠山が、南には千曲川の渓谷八ガ岳・富士山などを見ることが出来る。

04懐古園mid
小諸駅の目の前にある懐古園は小諸城跡で、東は浅間山山麓の丘陵につらなり、西は千曲川の清流に臨み、南と北は断崖となっていて、今は本丸の天守閣や三の丸などの石垣が残っているばかりだが、懐古園として公園となり庶民の憩いの場となっている。
小諸城は、平安耳朶に木曽義仲の武将・小室太郎光兼が築いた館に始まる。
戦国時代に武田信玄の統治となり山本勘助が城郭を整備し、小諸城の原型を作り上げる。
豊臣秀吉が天下をとると、仙石秀久が五万石で小諸に封じられ、今に残る小諸城を造ったが、徳川の時代となり元禄15年(1702)牧野康重が1万5千石で移封され、明治維新までの170年間を小諸藩を治めた。
そして明治の廃城例によりその役目を終え、本丸跡の懐古神社が祀られ「懐古園」と名付けられ、大正15年(1926)に、公園として生まれ変わるのである。

05中棚鉱泉mid
小諸城址の千曲川の畔に、島崎藤村ゆかりの宿として知られる「中棚鉱泉」(現在は中棚荘)がある。
小諸義塾の塾長だった木村熊二が、中棚付近の湧き水が子供の切り傷に効用があると知り、鉱泉開発を行い、明治31年(1898)富岡重蔵が「中棚鉱泉」を開業し、大正15年(1926)から旅館として営業を始めている。
中棚鉱泉(中棚荘)の敷地内には木村熊二の別荘水明楼があり、木村の門下生であった島崎藤村も中棚鉱泉にはよく通っていたという。
千曲川旅情のうたにも、
千曲川いざよふ波の 岸近きやどにのぼりつ にごり酒にごれる飲みて 草まくらしばしなぐさむ」とある。
水明楼の案内板には、
『この水明楼は、小諸義塾塾長木村熊二先生が、千曲川付近の自然を愛され、眺めのよいこの地を選び、明治31年(1898)5月、足柄町の士族屋敷にあった書斎を移築し、水明樓と名づけた別荘である。
先生は弘化2年(1845)京都で生まれ、明治2年(1869)から明治15年(1882)までアメリカに留学、帰国後は明治女学校校長を経て明治26年(1893)小諸義塾を創立、塾長となった。
そして、明治32年(1899)には島崎藤村を英語・国語の教師として招聘するなどすぐれた教師陣により青年教育に力を尽くし、また果樹栽培や農産物加工を奨励、殖産事業にも貢献した。
島崎藤村 は、恩師でもある先生のこの書斎を見ることを楽しみにたびたび訪れ、楼上の欄(てすり)に埼(よ)りながら、ここからの千曲川 の眺望を愛した。』
出典:【藤村ゆかりの水明楼】より
藤村の千曲川スケッチには、
「水明楼へ来る度に、私は先生の好(よ)く整理した書斎を見るのを楽みにする。
そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄てすりに倚(よ)りながら恣(ほしいまま)に賞することが出来る。
対岸に煙の見えるのは大久保村だ。その下に見える釣橋が戻り橋だ。
川向から聞える朝々の鶏の鳴声、毎晩農村に点つく灯(あかり)の色、種々(いろいろ)思いやられる。」
と記されている。