『鎌倉』(明治43年(1910)制定)
作詞:芳賀 矢一(はが やいち)、作曲:不詳、歌:文部省唱歌
6番に『鎌倉宮にもうでては/尽(つ)きせぬ親王(みこ)のみうらみに/悲憤の涙わきぬべし』
鎌倉宮は明治2年(1869)に、大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)を祭神として、明治天皇の勅令により、親王が幽閉された東光寺のあった所に創建された神社である。
護良親王は後醍醐天皇の第三皇子で建武の中興において、後醍醐天皇を援けて吉野、熊野等で鎌倉幕府討幕の中心として尽力をし、元弘3年(1333)に征夷大将軍に任じられる。
しかし建武元年(1334)、足利尊氏と対立し二階堂の東光寺に幽閉されることとなり、翌年、北条高時の遺児・時行が鎌倉に攻め込んだ中先代の乱で、敗走する足利直義の手の者に、28才という若さで暗殺されるのである。
歌はこの非業に、尽きない親王の怨みに悲憤を感じ得ないと歌っている。
7番に『歴史は長き7(しち)百年/興亡すべてゆめに似て/英雄墓はこけ蒸しぬ』
「いいはこ(1185年)」か「いいくに(1192年)」かは別として、源頼朝が鎌倉幕府を興し、1333年に北条高塒が自決し北条氏が滅亡してから700年の時が過ぎた鎌倉の地にある英雄たちの墓も苔むしたものとなってしまった。
8番に『建長円覚古寺の/山門高き松風に/昔の音やこもるらん』
建長寺は鎌倉五山の第一位で、建長5年(1253)、鎌倉幕府5代執権・北条時頼が、中国・宋の蘭渓道隆を迎えて創建した日本最初の禅宗道場である。
堂塔伽藍はたびたび地震や火災にあい都度再建されているが、その殆どは近世の再建になるものである。
蘭渓道隆像(絵画)などの国宝をはじめ数多くの文化財があり、1255建長7年(1225)に北条時頼がつくらせた梵鐘は、その美しさが関東第一といわれる。
円覚寺は鎌倉五山の第二位で、弘安5年(1282)に鎌倉幕府8代執権・北条時宗が、二度の元寇で亡くなった兵士を弔うために、中国・宋の無学祖元を迎えて創建したものである。
国宝の舎利殿は室町時代の建物で、大平寺(廃寺)の仏殿を移築したものである。
山上にある国宝の大鐘は、正安3年(1301)に物部国光により作られた鎌倉時代の名鐘で、関東地方最大の鐘といわれる。
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