『鎌倉』(明治43年(1910)制定)
作詞:芳賀 矢一(はが やいち)、作曲:不詳、歌:文部省唱歌
『若宮堂の舞の袖/静のおだまきくりかえし/かえせし人をしのびつつ』と5番に歌われる。
若宮堂の回廊で、静御前が頼朝や北条政子、鎌倉幕府の御家人の前で白拍子の舞を「静のおだまきくりかえし」と歌い舞った時のことを歌っている。
静御前は、烏帽子(えぼし)をかぶって水干(すいかん)という装束を身に着けて、太刀を付けた男姿で舞う白拍子(しらびょうし)であった。
静御前と源義経との出会いは、寿永元年(1182)7月、日本国中に日旱が続き、神泉苑にて、雨乞いが行われた。
名のある高僧100人を呼び、雨乞いの祈祷を行うが一滴も雨は降らず、また容姿端麗なる白拍子に舞をまわすのだが、99人までは空に変化はなく、100人目に静御前が舞始めると、にわかに空がかき曇り、黒雲が湧き出でて三日三晩、雨が降り続いたという。
この水干に立烏帽子で舞う、静御前の姿を義経が見初めたのだという伝えが「義経記」に残っている。
静御前と義経はたがいに惹かれ合い、文治元年(1185)、兄の源頼朝との確執により義経は京都を離れるのだが、常に静御前は義経と共にいたのだが・・・
翌年、静御前は、義経の計らいで大和国(現在の奈良県)吉野山で義経と別れるのだが、静御前は捕まり、母・磯禅師とともに鎌倉へ送られる。
この時に、鶴岡八幡宮で白拍子の舞を頼朝や北条政子、鎌倉幕府の御家人の前で舞った時に、
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるくまいた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら。)
自分の名前「静」を「倭文(しず)」にかけつつ、頼朝の世である「今」を義経が栄えていた「昔」に変える事ができれば、と歌っている。
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい。)
吉野山は静と義経が別れた場所。古今和歌集の冬歌、壬生忠岑による「み吉野の山の白雪踏み分けて入りにし人のおとづれもせぬ」を本歌とする。
出典:【ウイキペディア静御前】より
と歌うのだが、この時に義経の子を身篭っているのだが、頼朝は女の子なら命を助け、男の子なら殺せと命じた。
静の産んだ子が男の子だった為に、この由比ガ浜に沈められてしまうのである。その後、静と母親は赦されて京に帰るのだが、その後どう生きたのかは不明だが、義経と由比ガ浜で殺された子供を弔って、ひっそりと余生を過ごしたのであろう。
この舞を舞ったのが、養和元年(1181)に頼朝が建てた若宮の回廊だったのだが、建久2年(1191)の鎌倉大火により焼失してしまい、跡には舞殿が建てられ当時の建物は残っていないのである。
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