『鎌倉』(明治43年(1910)制定)
作詞:芳賀 矢一(はが やいち)、作曲:不詳、歌:文部省唱歌
「上(のぼ)るや石のきざはしの/左に高き大銀杏(おおいちょう)/問わばや遠き世々の跡」と4番に歌われる。
(石のきざはし(石の階段)/世々の跡(経過してきた時代・長い年月))
ここにあった大銀杏は、鎌倉三代将軍の源実朝が、この大銀杏のもとに隠れた公暁によって暗殺された所として知られている。
鎌倉幕府は平家を倒した源頼朝が開いたもので、よく「いいくに(1192年)つくろう鎌倉幕府」と覚えたものであるのだが、今はそうではなく「いいはこ(1185年)つくろう鎌倉幕府」というらしい。
その7年後、頼朝が建久10年(1199)1月に急死すると、嫡男の頼家が18才で家督を継ぎ、二代将軍となる。
この時に、北条氏などの有力御家人十三人の合議制がしかれ、政治はこの13人が握ることになる。(NHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」の放送があった。)
建仁3年(1203)に、頼家は急な病に倒れ危篤状態となると、次の将軍をめぐって比企能員(頼家の長男一幡の外祖父)と北条時政(頼家の弟千幡の外祖父)が対立し、比企一族は女、子供にいたるまで殺され、一幡もこの時に殺害されるのである。
頼家をとりまく側近は、北条時政の陰謀により、梶原景時や比企一族など、ことごとく滅ぼされてしまい、最期は天久元年(1204)7月に伊豆の修善寺に幽閉されているところを、北条氏の兵により23才で殺害されてしまうのである。
頼家の後、三代将軍となるのが、頼朝の次男である源実朝(千幡)である。
建仁3年、12才で将軍となり執権北条氏のもとで成長すると政治への関与を深めることとなり、これが仇となり、北条時政の謀略により、頼家の子である公暁に「親の敵」と襲われ命を落すのである。
実朝に子はなく、また公暁も北条氏に討取られ、頼家の他の子らも子をなさぬままに亡くなってしまい、ここに源氏頼朝の血筋は耐えてしまうのである。
公暁が実朝を襲ったときに隠れたのが、ここにあった大銀杏だという。
樹齢千年ともいわれた銀杏だったが、平成22年(2010)3月10日の大風によって、根元から倒れてしまうのである。
その後、『再生・再起を願い、大石段側の元の場所に残された根を保全、倒伏した大銀杏の本体(親木)は、西側(左)へ移植しました。
元の場所に残された根からの櫱(ひこば:若い木)が勢い良く伸び出し、移植した幹からも萌芽し葉を付けるまでになりました。
大銀杏の後継樹としての若木の選定、また親木の再生根の確認が出来るまでには数年の観察が必要とされます。
皆様の祈りが「頑張る大銀杏」のエネルギーになります。
何卒見守り続けて下さるようお願い申し上げます。』と書かれた駒札が、大銀杏のまえに建っていた。
出典:【鶴岡八幡宮 大銀杏の駒札】より
現在その櫱(ひこば)が成長し、次の世代を担うかのように育っている。
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