『鎌倉』(明治43年(1910)制定)
作詞:芳賀 矢一(はが やいち)、作曲:不詳、歌:文部省唱歌
「由比の浜べを右に見て/雪の下村(したむら)過ぎ行けば/八幡宮の御社」と3番に歌われる。
JR鎌倉駅の東口から小町通りを着たに、鶴岡八幡宮にと向う。観光客で賑やかな小町通りを10分ほど歩くと鉄ノ井があり、そこを右に曲がると、すぐに鶴岡八幡宮の三の鳥居となる。太鼓橋をみて鶴岡八幡宮のに入る
雪の下村(したむら)
雪ノ下は古都鎌倉の要衝地で、鶴岡八幡宮の周辺の地であった。
「吾妻鏡」によれば、建久2年(1191)滅多に雪が降らない鎌倉で大雪が降り、源頼朝が雪見見物のため鶴岡八幡宮を訪れた際に、夏の暑さをしのぐために雪を貯蔵するよう命じたとの記録があり、その雪を貯蔵する場所が八幡宮周辺にあったようで、雪屋や氷室の麓(下)ということで、その名が付いたのだという。
その雪の下村を過ぎていけば鶴岡八幡宮の社があると歌っている。
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)
鎌倉市雪ノ下にある鶴岡八幡宮は、康平6年(1063)、源頼義が前九年の役の戦勝を祈願して、京都の石清水八幡宮を、鶴岡若宮として鎌倉に勧請し、永保元年(1081)、これを源義家が改修したのが鶴岡八幡宮の始まりとされる。
治承4年(1180)、平家打倒の兵を挙げた源頼朝が社殿を現在の地に移し、上宮(本宮)と下宮(若宮)を造営し、石清水八幡宮を勧請した
その後、幾多の興亡変遷など歴史の裏表を、かいま見ながら多くの人の信仰を集めている。
鶴岡八幡宮は、
『祭神に、応神天皇・比売神・神功皇后を祀り、源頼義公が前九年の役平定後、康平6年(1063)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。
治承4年(1180)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。建久2年(1191)大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた。
以来当宮は武家の守護神として北条・足利・後北条・徳川各氏も社領等の寄進、社殿の修造を行い篤く尊崇した。』
出典:【鶴岡八幡宮の説明書】より
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