『鎌倉』(明治43年(1910)制定)
作詞:芳賀 矢一(はが やいち)、作曲:不詳、歌:文部省唱歌
3番には「由比の浜べを右に見て/雪の下村(したむら)過ぎ行けば/八幡宮の御社」と歌われる。
極楽寺坂切通しまでは、歌の巡りと逆に辿ってきたのだが、歌の順に行くと江ノ電の「七里ガ浜」の駅に始まり、「稲村ケ崎」「極楽寺」「長谷」へと向い、「由比ガ浜」「和田塚」と過ぎ「鎌倉」となる。
極楽寺坂の切通しまでは、この逆を行っていて、ここからは歌の通りに訪ねていくこととし、江ノ電「由比ガ浜」まで一機に戻ることとする。
由比ガ浜(ゆいがはま)
由比ガ浜は、今は海水浴場として賑わっているのだが、鎌倉時代は処刑場であり、また色々な出来事があった所である。
一つは、源義経の愛妾・静御前が捕らえられ鎌倉に送られ義経の子を産むのだが、頼朝は生れた子が、女の子なら命を助け、男の子なら殺せと命じた。
静の産んだ子が男の子だった為に、この由比ガ浜に沈められ殺されてしまうのである。
その後、静と母親は赦されて京に帰るのだが、その後どう生きたのかは不明だが、義経と由比ガ浜で殺された子供を弔って、ひっそりと余生を過ごしたのであろうか。
また源頼朝以来の家臣であった和田義盛が、三大将軍・実朝の時の二代執権・北条義時の陰謀で幕府に反旗を翻し、当初は互角の戦いを繰り広げたが、衆寡敵せず由比ガ浜まで撤退を余儀なくされ、 和田義盛が討ち取られると和田軍は一気に崩壊し、一族郎党斬首され、首が固瀬川(現在の境川)に晒されたという。
和田一族を埋葬した所が和田塚として伝えられ、江ノ電の駅名のもなっている。
『和田塚は健保元年、鎌倉幕府内部抗争による北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍を埋葬した塚として今日まで伝承されている。
和田塚の前身は古墳時代の墳墓であったと言われている。
大正末期ごろの開墾などによって多くの塚が壊されたが、五輪塔をならべた和田塚はかろうじて残った。
鎌倉の歴史を語る上で貴重な遺跡である。』
出典:【和田塚の案内板】より
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