『鎌倉』(明治43年(1910)制定)
作詞:芳賀 矢一(はが やいち)、作曲:不詳、歌:文部省唱歌
「極楽寺坂超え行けば/長谷観音の堂近く/露座の大仏おわします」と2番に歌われる。
極楽寺坂切通し(ごくらくじざかきりとおし)
01切通(1)mid
極楽寺の駅で降りた最大の理由は、どうしても切通しが見たくて、駅の近くにある「極楽寺坂切通し」を訪ねることであった。
極楽寺坂切通しは鎌倉時代のものではなく、大正時代に造り直されたもので、車も通ることの出来る道路となっていた。
鎌倉には七つの出入口があり、ここはもっとも西南に位置する所にあり、古道は成就院のあたりが頂上で、250mほどの距離で、高低差が20mもあり、かなりの急勾配だったようである。

02切通(2)mid
極楽寺坂切通しの名を知らしめたのは、新田義貞が鎌倉に攻め入った時に、ここで幕府軍の激しい抵抗にあい、左将軍の大館宗氏までが討死にをし、この切通しを破ることが出来ず、やむなく稲村ガ崎に迂回して、潮が引くようにと剣を投じて祈ると、潮が引いたという。
そして稲村ガ崎から鎌倉へと攻め入り、鎌倉幕府を滅亡させたのである。
そんな伝えと激戦が行われたのが、この極楽寺坂切通しなのである。
ちなみに、「朝比奈切通し」や「名越切通し」は山中にあり、今も当時の趣を残しているという。

03極楽寺mid
極楽寺の駅にあった案内板によれば、
『極楽寺開山忍性が開いた道と伝えられ、京都・鎌倉間の往還路だった。鎌倉・南北朝時代の武将・新田義貞は、元弘3年(1333)5月、一族を集めて討幕の挙兵をした。各地の合戦で幕府軍を撃破し、鎌倉に迫ると、義貞は軍勢を三隊に分け、極楽寺切通、巨福呂坂、化粧坂の三方から攻めた。一方、幕府軍も三方に手分けして防戦。「太平記」(巻第十 稲村崎干潟と成る事)はこの合戦のありさまを次のように記している。
さる程に、極楽寺の切通しへ向われたる大館次郎宗氏、本間に討たれて、兵ども片瀬・腰越まで引き退きぬと聞こえければ、新田義貞、逞兵二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかりに、片瀬・腰越をうち回り、極楽寺坂へうちのぞみたまふ。明け行く月に敵の陣を見たまへば、北は切通しまで山高く路けはしきに、木戸をかまへ、かい楯を掻いて、数万の兵陣を並べて並ゐたり。(引用文献 新潮日本古典集成 新潮者 昭和五十五年)』
                      出典:【文学案内板 極楽寺周辺】より