『鎌倉』(明治43年(1910)制定)
作詞:芳賀 矢一(はが やいち)、作曲:不詳、歌:文部省唱歌
「極楽寺坂超え行けば/長谷観音の堂近く/露座の大仏おわします」と2番に歌われる。
極楽寺(ごくらくじ)
01長谷mid
長谷寺に参拝して、江ノ電「長谷」駅から鎌倉の駅に戻る予定であったが、どうしても「切通し」が見たくて、鎌倉とは反対に一駅のところに「極楽寺」駅があり、ここで降りると極楽寺坂「切通し」があるとのことで、ここから極楽寺まで電車に乗ることとした。

02駅mid 03ホームmid
極楽寺の駅は、鎌倉から4つ目の駅で、第3回関東の駅百選に認定された、昭和を感じさせる木造のレトロな駅舎である。
ホームは単式ホームで、一面一線の地上駅である。
プラットホームの片側のみが線路に面し、上りも下りもこのホームから乗り降りをする。

04極楽寺mid
江ノ電「極楽寺」駅を出、線路に架かる桜橋という名の赤い橋を渡ると、すぐに「極楽寺」がある。
小さな茅葺の山門がある「極楽寺」は、鎌倉で唯一の真言律宗の寺院である。
時間も遅かったせいか参拝する人は殆どなく、境内も静かで鎌倉らしい瀟洒な寺であった。
北条重時が発願し、極楽浄土を実現しようと造営をする。当時は広大な敷地に多くの堂塔伽藍が立ち並んでいたようだが、天弘3年(1333)の新田義貞が鎌倉に攻め込んだときの戦で戦火にあい、建物の殆どが焼失してしまうのである。
以降かっての繁栄はみられないが、国家安泰を祈る寺として現在に至っている。

05境内mid
極楽寺の説明板には、
『開山は良観房忍性。奈良西大寺叡尊門下で戒律を学ぶ。弘長2年(1262)に北条業時に招かれ多宝住持となり、その後文永4年(1267)に極楽寺に開山として迎えられました。
極楽寺は正元元年(1259)に深沢に創建され、後に開基となる北条重時が現在地に移転したといわれています。元寇に際しては、幕府の命により異国降伏の祈祷を行い、また、鎌倉幕府滅亡後も勅令により国家安泰を祈る勅願所としての寺各を保ちました。かっての寺域は広大で、中心の七堂伽藍を囲むように多くの子院、そして療病院などの病院施設もあったことが当寺に伝わる絵図からわかります。』
                          出典:【極楽寺の説明板】より

06極楽洞mid
長谷駅から江ノ電に乗り、極楽寺駅の手前に江ノ電唯一のトンネルである「極楽洞」がある。
極楽寺に渡る桜橋の上から、それを見ることが出来る。
長さ209mの小さなトンネルで、入ったと思えばすぐに出口で、トンネルに入ったというのを感じさせないトンネルが、明治40年(1907)2月の完成というから、105年をしても、いまだに現役として使用されている。
江ノ電は開業し110周年であり、このトンネルはほぼ開業当初からのものである。

07トンネルmid
アーチ形のレンガ造りのトンネルで、現代のように土木技術も発達していないなか、総て手彫りで掘削され、明治の息吹を今に残す建築物である。
極楽洞の説明板によれば、
『極楽洞は、「江ノ電」の愛称で親しまれている江ノ島電鉄株式会社が所有する煉瓦造りの抗門で、右手の桜橋から見ることができます。
アーチの頂部に2箇所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいもので、今なお建設当時の原形をとどめています。
江ノ電が極楽洞を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を偲ばせます。』
               出典:【鎌倉市景観重要建築物 極楽洞の説明板】より